お気軽にお問い合わせください
03-3255-4730

神田にて夜間診療も行っております。
〒101-0047
千代田区内神田2-7-14
山手ビル3号館4F

各種保険適用/
自立支援医療制度
扱っています

地図
ネットで受付(初診のみ)
東京カウンセリング研究所
何冊かの本の僕なりの書評
荻本医院のブログ
症状について

3番目のものは、神経症性不安と現実不安 Realangst(つまり、現実の危険に対する反応である不安)との関係についての問題を提起している点で興味深いものですが、フロイトはただ「なにか」がこの不安を引き起こすと説明しているだけです。Wir werden doch zun劃hst die Erwartung festhalten wollen : wo Angst ist , muァ auch etwas vorhanden sein , vor den man sich 穫gstigt . また、このテキストでは、不安と(神経症の)症状の関係、抑圧はそこでどのような役割を演じているのかは十分な説明が尽くされているとは言えませんが、不安=信号説が素描され、自我により症状への逃避がなされることが述べられています。いちばん不明瞭なところは「危険」についての説明でしょう。リビドーは、たとえば小児神経症の際、利用されないままとどまり、不安へと変化するとフロイトは述べていますが、なぜ、このリビドーが危険の因子となりうるのかという点です。『ハンス少年の症例』、『トーテムとタブー』、『狼男の症例』などを通 じて、去勢不安についての重要性を認識していながら、なぜかれは、これを「危険」と結び付けられなかったのでしょうか。
 
『制止、症状、不安』の第Ⅳ章で、フロイトは再びハンス少年を取りあ、やにわにそれまで自説としてきたことを覆します。抑圧を作動させるのは去勢不安であり、その逆ではなかったのだと。しかしこの逆転は、理論展開のうえで必然的なものといえます。実際、フロイトは、ハンス少年の恐怖症をめぐって、次のような重大な問題提起を行なっています。つまり、症状とはなにか、不安が昂じてくるのはなぜか、不安を引き起こす対象の選択とは、かれが拒絶した満足とはなにか、そしてなぜかれはそれを拒絶したのか。
 
症状とは馬恐怖である、あるいは「馬に噛まれるのでは」といった不安に満ちた予期である、とフロイトは説明しますが、そこからさらに論理を展開するにはこの少年がおかれた心的状況を考慮に入れなければならないとして、父親に対するライヴァル心と敵意、エディプステキな態度を重要視します。抑圧された欲動の代表は敵意の対象としての父親ということになります。不安は父親が行使するかもしれない復讐に対するおそれとして説明され、このおそれは、当然の反応、理解可能な反応であるがゆえ、症状とみなされません。神経症的な特徴が現れるのは、父親から馬へと代理形成が生ずるとき、つまり恐怖症の対象の置き換えが成立したときであり、どうじに葛藤が解決されるのです。不安は他の症状へと向けられ、父親への愛のみが意識されるものとして残されます。憎しみの対象としては父親、さらにはその代理である馬も抑圧されます。馬に対して、少年には憎しみはなく、恐怖と憐れみのみが認められていたのですから。
 
こうして明らかになったのは、抑圧を作動させるのは当の去勢不安であり、不安の内容(馬に噛まれるのではというおそれ)はつねに、最初の内容(父親に去勢されるのではというおそれ)の変形がほどこされた代理ということになります。
 
……不安という情動は恐怖症の核心をなすものだが、抑圧過程から生じるものでもなく、抑圧された(欲動の)動き Regung へのリビドー備給から生じるものでもない。不安は抑圧するものそのものから生ずるものである。動物恐怖症の不安の本性は不変のまま存続する去勢不安であり、この後者は現実不安、つまり現実に迫ってくる危険、あるいは現実にそうだと判断された危険を前にしての不安であり、それゆえ、不安が抑圧をもたらすのであって、その逆ではない。かっては抑圧が不安をもたらすと誤って考えていたのだが。G.W.?Ⅳ.p.137.
 
恐怖症状がどのように働くのか、これではっきりしてきました。まず自我が去勢不安を察知します。そして不安信号を発すると、一連の、脅威となる表象が抑圧され、無意識のものとなり、同時に、恐怖症が形成されるのです。去勢不安は別 の対象に結びつき、歪曲された表現をとることになります。このような変形は、父親についての愛と憎しみとのあいだの葛藤を回避することにも役立つし、自我が不安を発するのをストップするためにも役立ちます。
 
以上の説明は、強迫神経症やヒステリーの症状形成のメカニズムんにも妥当します。どの場合でも、症状は、不安が昂じてくることによって知らされる危険な状況を回避するのに役立っているのです。神経症は、この1926年の『制止、症状、不安』に至って、去勢という共通 する核心のもとにまとめあげられ、それらの差異は、不安信号に対する症状の現れ方によって決まるとされました。
 
『続精神分析入門』の第32講において、自我が不安、症状をめぐって、どのような役割を果 たしているのかがさらに明かにされます。自我は、リビドーから要求があると、過去に遭遇した、危険な状況の記憶を呼び喚こし、この危険が繰り返されないように、欲動の備給を禁圧します。自我が強ければ、この過程は難なく達成されます。逆に、欲動を抑え込むだけの力が十分に備わっていないと、自我は特別 のテクニックに頼らざるを得なくなります。つまり、欲動が満足するのを先回りしてくい止め、恐れられた状況に突入しそうになるとき不快が生じるようにさせるのです。このテクニックは快-不快の自動装置 Lust-Unlust-Automatismusを発動させ、危険な欲動(の代表=表象)を抑圧します。自我が試験的な備給を促し、不安=信号とともに、快-不快の自動装置が発動するのです。
 
いくつかのケースがそこからよそうされます。

  1. 不安発作が満開となり、自我は自らの役割を断念し、この発作を放置する。
  2. 自我が逆備給を用いることにより、症状が形成される。
  3. あるいは、この逆備給により反動形成が確立する。
さて不安はそもそもなにに対する不安なのか。まずそれは去勢不安であると既に定義されています。ここ(『続精神分析入門』)でフロイトは、この去勢不安と対象喪失とを結びつけます。男根期に起こる去勢不安は対象喪失を前提とした分離不安でもあります。図式的にいうならば、女の児の場合、対象喪失、もっと正確に言えば、対象の側からの愛を喪失することが、もっとも重大な危険状況だからです。そしてフロイトは、これまでの著作においても同様なコンテクストにおいて依拠してきたのと同様、ここでも、快感原則に従うならば、外傷というモメントを考慮から外すことはできないと述べています。
 
ここで問題が起きてきます。断念した初期の理論に回帰しているともみえる叙述がみられるからです。フロイトはこう述べています。事後の抑圧Nachdraengenについていえば、たしかに不安は過去の危険な状況の再現の信号であるが、原抑圧Urverdraengungは自我が外傷的契機に引続いてリビドーの過大な要求にみまわれたときに形成されるのだが、この原抑圧によって、出生時の不安をモデルとして、独自の不安が現れると。そしてどうようなメカニズムにより、不安神経症において、性的機能の身体的障害から不安が生ずるのであろうと。
 
不安理論におけるフロイトの試行錯誤―――フロイト自身、この問題に満足な解答を与えることが出来たとは思っていなかったでしょう―――を一義的な解釈で片付けてしまうことはできないでしょうし、
 
***この先工事中***