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恐怖症

広場恐怖、閉所恐怖、先端恐怖、疾病恐怖、対人恐怖などに図式的に分類可能ですが、DSM‐IVの記述とはうらはらに日本では不安(発作)と結びつくことが多いのは閉所恐怖 Claustrophobie, claustrophobia(通勤中の電車のなか、高速道路で渋滞に巻き込まれたとき、等々)です。広場恐怖 Agoraphobie, agoraphobia を特定の場所に結びついた恐怖一般を指すとしてのことでしょうが、主体が空間にかかわる様態は、広場恐怖と閉所恐怖とではある意味で逆なのであり、この問題をめぐってのDSM‐IVの記述の片手落ちは奇妙としかいい様がありません。
 
因みに claustro‐ はラテン語 claustrum(修道院の回廊)から派生したであろう仏語動詞 claustrer および名詞claustration(それぞれ1845, 1791年に用例が認められています。agora(ギリシャ語)は説明を要しないでしょう。
 
また日本人に特徴的な対人恐怖は、DSM‐IVでは社会恐怖(社会不安障害)にほぼ一致するものでしょうが、その診断基準の最初に記述されている「よく知らない人たちの前で……云々」というケースよりも、ある程度面 識のある人たちを前にしたときの自分の言動(とこの言動に対する他人の評価)についての恐怖の方がより深刻であることが多いといえます。日本人は「よるべなさ」よりも「村八分」を恐れるのです。

 

§パニックディスオーダーという名称について

いまや不安神経症という診断名にとって代わられつつあります。DSM‐IVには神経症という語は存在しません。panic* disorder も不安障害のカテゴリーのなかで扱われています。では不安とはなんでしょう。
 
仏語 panique(形容詞)の用例の方が古くから認められています。16世紀、ラブレーは panice という古い形を用いて書いています。当時、「パンについて」という語義があり、パンが不意に現れることが恐怖を引起こしたことから、「恐怖」を形容する語となりました。余談ですが、アーサー・マッケンの『パンの大神』はまさに恐怖以上のものです。英語 panic は名詞で、これがフランスに逆輸入?され、avoir la panique などという表現もよく使われます。日本でもパニック映画が氾濫したころからでしょうか、この横文字はよく使われるようになったものです。
 
もちろん、「不安」という語の語義の広がりを panic で代表させることはできないでしょう。また、各国語の不安に相当する語にはそれらの内包と外延があり、同列には扱えない部分も存在します。たとえばドイツ語で Ich habe Angst とは言えても、フランス語で J'ai angoisse とは言えません。Je suis angoisséでしょう。それでも、不安, anxiety, Angst, angoisse には一寸した不快感から、それこそパニックという語が相応しい情動の氾濫までに及ぶ共通 の意味作用の広がりを持っています。
 
哲学に興味をお持ちの方には申し訳ないのですが、ここでは、キルケゴールにもハイデガーにもふかく言及するようなことはしませんし、そのような資格を小生はもち合わせてもいません。ただ、このページが増殖してゆく性質のものであることから、ラカンとの関係で、キルケゴールには一寸触れることになるかもしれません。
 
さしあたっては、フロイトにおける不安をめぐる理論展開とそれに伴う不安神経症の臨床的位 置付けの変遷を辿って行くことにします。フロイト理論にアポリアがあるとするならば、その核となっているもののひとつが「不安」の問題だということができるでしょう。もつれた糸を解いたのはラカンだと思いますが、この糸を手繰り寄せるのも大変です。ややもすると、前よりもこんがらがってしまいます。そこらへんのところを小生なりに概観してみようと思います。その後で再びパニックディスオーダーに戻ります。
 
1894年、草稿 E のなかでフロイトは、「不安はどこから生じてくるのであろうか」という問を発しています。それ以降40年にわたって、紆余曲折を伴った理論展開が繰り広げられますが、最晩年にいたっても、かれ自身、満足のゆく決着をみたという実感は持っていなかったでしょう。
 
便宜上三つの時期を区別して説明してゆくやり方がすっきりと整理されて理解できるかと思いますので、小生もそうします。
 
第一期では、不安神経症(少なくとも、この名称のもとに、ひとつの臨床的単位 を確立したのはフロイトそのひとです)を神経衰弱から独立させて論じることができ、同時に、強迫神経症と恐怖症を切り離して論じる試みも行なわれました。神経症全体の病因としては、当時支配的であった Janet の心的変質説を刷新しました。
 
この1894年の論文において、不安と恐怖症との関係は、主体が不安から身を守るため呈する症状が恐怖症であると要約されます。強迫症状と恐怖症の差異は、この時点では、前者が性的な内容の記憶からの防衛によって説明され、強迫神経症はヒステリーとともに防衛-精神神経Abwehr-Neuropsychose として位置付けられたのに対して、後者は不安神経症にみられる症状あるいは機制であり、性的な事象が関与するとしても、心的なメカニズムが作用するのではなく、現にある性生活上の離脱による、性的(エネルギーの)緊張の蓄積が不安の湧出となるものと解されていました。不安神経症が当時、神経衰弱とともに現実神経症 Aktualneurose として扱われ、つまりその時点では、精神分析療法の対象からは除外されていたわけです。
 
ところがフロイトはヒステリーか研究において、幻想 Phantasie の重要性を認めるようになります。1897年のフリースへの手紙のなかで、かれは、「ヒステリー者の幻想は、かの女(あるいはかれ)が子供のとき、自分の幼児期に起きたと思っていた出来事に結びつくのだが、ずっと後になってからやっと、その事柄の意味を理解する」と書いています。この nachtr拡lich という語をフロイトはしばしば用います。後にラカンによってこの語の重要性は着目され、主体とシニフィアンとのかかわり、そこから成立してくる意味作用といった翻訳が施されます。さらに一ヶ月後の手紙、草稿 Mでフロイトは、「すべての不安症状(恐怖)は……幻想に由来する」と言い切ります。こうして不安神経症(恐怖症は、ヒステリー、強迫神経症、と同列のものへ、つまり現実神経症ではなく防衛-精神神経症仲間入りすることになります。不安は、この時点では、幻想にかかわる、抑圧の結果 として捉えられます。自我という概念は、不安との関係においては、まだ登場していません。いわゆる局所論の導入とともに、抑圧の理論も展開され、不安についてのとらえかたもその都度修正されてゆきます。
 
「ハンス少年」の症例の紹介とともに、恐怖症は、はっきりと『防衛』神経症であると規定されます。ヒステリーとの差異は症状レヴェルのものにすぎず、構造的には「転換」の有無を除けば同質のものとして、不安神経症のかわりに「不安ヒステリー」といった用語が使われるようになります。臨床単位 へと昇格した「恐怖症」の誕生です。現象としての恐怖症あるいは不安は次のようなメカニズムを通 じて現れるとされます。つまり、情動は原因となる素材つまり表象と切り離されるがヒステリーとは異なり、身体領域への転換が行なわれず、自由で拘束されないまま、不安というかたちで現れるのだと。この自由で拘束されない不安を不安ヒステリーは固定させようとある対象を見つける。それが恐怖症の対象なのだとフロイトは言います。ところでハンス少年の症例はまた、フロイトにとって、エディプス願望の帰結としての去勢コンプレックスの準拠となる症例でもありました。しかしここでは、症例の分析の細部に立ち入ることはしません。
 
もう一度おさらいをしてみましょう。1909年の時点でのフロイトは、エネルギーの不安という形での湧出という初期のいわゆる経済論的概念になお支配されていましたが、神経症の核としての去勢コンプレックスを導入することができました。以後、「父親」の問題、「去勢」の問題は『トーテムとタブー』、『狼男の症例』を通 じて展開されてゆくこととなり、第三期の不安理論へと受け継がれてゆくこととなるのです。
 
1916年の『精神分析入門』では、前段までの理論の基本的部分の修正は行なわれないまま(一部、後退している部分もみられる)、フロイトは神経症性不安の三つの型を区別 している。
 

  1. 1916年の『精神分析入門』では、前段までの理論の基本的部分の修正は行なわれないまま(一部、後退している部分もみられる)、フロイトは神経症性不安の三つの型を区別 している。
  2. 不安ヒステリーとしての恐怖症における不安。
  3. 危険というものとの関連をまったく見出すことのできない不安。不安発作であり、ときに眩暈、胸部・喉部の絞扼感といった身体症状に置き換えられる、不安の自発的発作。
    ※「不安は対象のないおそれ」という定義については後述。