ジャック・ラカン
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三つ〔目的因以外の三つの原因、始動因、形相因、質料因〕しばしば一つ〔目的因〕になっている。 というのは、事物のなんであるか〔本質、形相〕とその事物がそれのためのそれ〔目的〕とは一つであり、 そしてこの事物の運動が第一にそれから始まるそれ〔始動因〕もこれら〔形相および目的〕とその種において同じだからである。 たとえば人間〔親〕は人間〔子〕を生むからである※※行動主義においても、行動という概念が一見現実界に属すものとして、そこに依拠しているように説かれようとも、 その目的はつねに同一的な組織体のなかでプログラムされたものであるゆえ、 やはり自然学的目的観、classicismeの系譜をひくものであることは言を俟たないであろう。 ※ S20.P.96. ※※ 目的因である不動の動者たる神については次章で述べる。 「……classiqueそれはdit-mancheである。」※ とラカンの語呂あわせは続く。dit-mancheはpensée の歴史の終焉/目的として約束された絶対知を目指す。dit-mancheはもちろんdimanche「日曜日」であるが、それは平日の労働を強いるために約束された安息日である。しかしながら強迫神経症者は、絶対的享楽がこの日曜日に約束されているものとして待ち望みながら、つねにそれを先送りにし、さしあたっては労働を続けていく。事実「日曜神経症」と呼ばれている患者にとって、日曜日はけっしてアリストテレス的テロスが実現する 日ではなく、むしろ絶えられない日なのである。dit-mancheはまた別 の語呂合わせを連想させる。象徴界はdit-mentionであるが、それは諸次元のなかのひとつの次元(dimension,dit-mension)にすぎない。 ※ S20.p.97. le mancheの限界はla mancheとして示される。la mancheはラテン語manica(トゥニカ【ギリシャ・ ロ-マ時代の貫頭衣】の長袖、手袋など)から派生した語であり、十七世紀においてトランプによる手品の意で使用され、 後にmanchetteの転用として「袖」manche d'habitさらに「ゲ-ム」、あるいは「筒状のもの」、ホ-ス」、などの意に用いられるようになった。 隠語としてle mancheと同様、男性性器の意があるが、女性性器に対しては用いられない。しかしラカンは男性形mancheに対峙させるかたちでla mancheを用いる。 la mancheが女性性器を象徴するものであるとすれば、そこにはいくつかの連想が成立する。それは実体を持たないものであり、 ファリックな原理から求められるものとしての真理である。しかし真理が「隠れなさ」として表されるとしても、それはの作用によるものでしかなく、 の背後には「隠れ」が保蔵されたまま残ることになる。を担うファリックな原理は、隠蔽することにより、 その虚構的な真理を維持することができる。ラカンはla mancheから手品 tour de passe-paseを仄めかしている。 ※ 事実、手品において、袖は隠し保つための場所である。種明かしをしないことが手品の虚構的な真理を保蔵するための前提である。 最初の嘘によって形成された穴は、それを隠蔽するために、次々とシニフィアン=ロゴスによって埋めていかねばならない。 ※ S20.p.97. le mancheの言説であるアリストテレスの言説に戻ろう。 『霊魂論』における理性については先ほど触れておいたが、ラカンは能動理性について次にように述べている。 アリストテレスは象徴的機能において要となるものを能動理性として分離したまでは賢明でした。 かれは理性が働いているのは象徴界においてであるときっぱり言っています。しかし次のことを理解できなかった点では賢明さに欠けていたのです。 すなわち、キリストの啓示に与かることがなかったので無理もありませんが、ある言葉 paroleが、 それがかりにかれ自身の言葉だとしてもですが、言語 langageによってのみ支えられているこの理性を示すとき、 享楽とかかわることになるということをです。しかも享楽は、はからずもかれの著作のいたるところで隠喩的に表われてもいるのです。〔著者〕※ ※ S20.p.102.,cf.infra. <>・2. 性的(無)関係の(非)論理の最初に戻る |