ジャック・ラカン
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『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74さらに突っ込んで検討してみましょう。ある言語学者は、現象そのもののなかには意味sensがないと言い続けています。かれには気の毒だが、厄介なのは、ことばも意味をもっていないのです。辞書があっても駄目です。自信をもって言いますが、わたしは、フレーズのなかにある任意の語をどのような意味にでもとれるようにすることができます。では、任意の語に適当な意味を賦与するとすると、フレーズのどこで区切りが打たれるのでしょうか、どこで単位となる構成分子が現れるのでしょうか。 わたしたちはいまローマにいるわけですから、わたしが申し上げたいと思っていることにヒントを与えたいと思います。シニフィアンについて、件の単位がこの地ではどのように示されているのかを問題にしましょう。 ご存知のように、いわゆる三対神徳trois vertus théologalesというものがあります。ここローマには、この三対神徳が豊満な女体像で描かれている壁画がいたるところにあります。このことを念頭に置いたうえで、確実にいえることは、女体像に症状という名を与えても、不自然ではありません。なぜならば、症状を、例によって現実界によって定義するのは、女性les femmesが現実界をみごとに表しているからです。わたしは、女性les femmesはすべてではないpas-toutesということを言い続けていますでしょう30)。ここから新しいヴァージョンということで、三対神徳については、希望、いや元い、信仰foi、希望espérance、愛charitéですね、下痢foire、「一切の望みは捨てよ」lasciate ogni speranza 31)にて示すのは、例によっての形態素変容métamorphèmeですが、断わっておきますけど、みなさんがわたしにourdromeをどうぞ、と言ったのですよ。三対神徳をそう命名し、結局、駄目なやつにしてしまう、超挫折男archiratéにしてしまう、これっていうのは、症状で一番応えるやつでして、三女体像の症状で一番きついやつです。わたしには理に叶っていると思うのですが、理性理性と押し通してゆくとすると、煎じ詰めると、例えばカントが自らに課した三つの問いとして言い表すことになってしまうでしょう。このカントの三批判での課題に関して、わたしは、テレヴィジョンでのスピーチ32)で、なんとか無難に切り抜けなければなりませんでした。課題とはこうです、「わたしはなにを知ることができるのか」、「わたしはなにを欲することができるのか」- これがクライマックスです、そして「わたしはなにをしなくてはならないのか」。ともかくも、このような課題に挑むとは見物です。もちろん、わたしは、信仰、希望、愛を尋問台に立たせる最初の症状とは考えていません。これらは悪性の症状ではありません。でもやはりこれらは、人間の根っ子にある神経症を支えているんではないでしょうか。言い換えると、最悪の事態は起こらないし、ひとは現実原則つまりファンタスムに依りかかる、といった希望的観測なんでしょうか。でも、結局、教会が監視の眼を光らせているのです。カントのように極端な理性至上主義にお墨付きを与えるのです。 このような例をもちだすのは、症状をどう読み解くか、ゲームとして示してしまったので、そこに立ち往生しないためなのですが、よろしいですね。その際、解釈とは、いまも盛んですが、つい最近出てきたものではなく、つまりトスタン33)、レデイ・メイド、マルセル・デュシャン34)もそうなんですが、みなさんには、そこに、地口に見出される本質的ななにかを読み取って欲しいのです。われわれの解釈が向かうのはそこです。解釈が症状に意味sensを賦与させないためなのです。 と言いながら、白状してしまいますが、どうしてもです。このトリック、信仰、希望,愛から下痢という言葉へのずれについてです。このことに言い及ぶのは、昨夜、あるいは一昨夜だったでしょうか、プレス・インタヴューで、インタヴューアーのひとりの質問がきっかけで、この信仰と下痢のことをもっと詳しく説明しなくてはと思ったのです。このことはわたし自身の夢から来ています。わたしだって、フロイトのように、自分の夢を披露させてもらって宜しいでしょう。でも、フロイトとの夢とは違って、わたしの夢は眠りを持続させたいといった欲望に由来するものではありません。むしろ覚醒の欲望が働いていたのです。わたしの心は揺れました。しかし、こんなことはそうあることではありません。 さてシニフィアンという単位です。これが最重要なのですが、はっきり見て取れるのは、それは、sans…(ibid) それははっきり見えます。つまり、現代の唯物論が生まれた経緯は、それが人々を長年にわたって悩ましてきたからであり、この悩みの種について、唯一、人々が掴むことができるものと期待されてきたものは、文字であったわけです。アリストテレスとそれ以後の哲人たちが最終的に行き着くのは、要素についてのアイデアを構想するようになると、つねにそうなのですが …(ibid) われわれ分析家と同様、一連の文字、r, s, tといったものが必要になるのです。いましがた、砂粒の譬えで申し上げたと思うのですが、要素という概念をこれと別の言い方で言い表すことなどできません。因に、もうひとつ別の例を挙げてもよいのですが、省きます。問題はないでしょう。要素という概念、つまり、数えるということしかできないもの、とわたしは言ってきましたが、そうすると、砂粒などは、数えてもきりがないということになります。無数の砂粒も、アルキメデスによれば、その大きさで分類できるのでしょうが、このことを可能にするものとして、文字以外思いつくものはありません。しかしこのことから、また、ララングのない文字は存在しないことからも、問題が生じます。つまり、ララングは、いかにして、文字としてかたちを現すかです。エクリチュールについては、わたしたちは、まったく気にも留めていませんでした。しかし、十分に検討するだけの価値があるのです。要はそこにあるのですから。 さて、わたしは、シニフィアンについてこう措定しました。つまり、それは、他のシニフィアンに対して、主体を代表する、と。こうして、シニフィアンの機能が明らかになります。どなたかが先程、指摘してわたしが申上げようとしたことを解りやすく説明されたように、この機能とは、解読déchiffrageにおいて、解読という作業がかのように … (ibid) ですから、当然のこととして、数字chiffreに立ち戻ることになります。また、このような解読のみが、精神分析おいて、唯一、悪魔払いとして働くよすがとなるものです。なぜかと言うと、要は、解読とは数字を成り立たせているもの、症状を形成するものであり、症状とは、現実界について、書かれることを止めないne cesse pas de s'écrireだからであり、また、この現実界を飼い馴らしにかかって、言語がこれを毒にも薬にもならないものにしてしまうまでにすると、勢力分布は変わり、症状は、これからお見せすることになる図で、その所在が示され、ファロスの享楽とは一線を画することになることからも、解読は有効なのです。 [やや脱線しましたが、こういうことも必要でもあるのです] わたしは、わたしのはなしをse jouitから始めましたが、みなさんにとって、このse jouitの存在を証明するものがあります。みなさんの分析主体となるであろう人がセッションを続けるためにみなさんのところに通うことを決心する、という事実です。わたしはみなさんにこう質問しますよ。どうして分析主体は、繰り返し来てくれるのでしょう、みなさんの分析家としての仕事が、分析主体に大満足を与えていると思ったことはないでしょう、と。ですからse jouitが問題となるのです。分析主体は、自分の満足のためでなく、みなさんの分析を満足させるためにも頑張らなくてはならないことを心得ていますが、それだけではありません。分析主体はなんらかのことでse jouitしますが、けっしてje souisでではありません。その理由ははっきりしていますし、みなさんがはっきり示しているはずです。つまり、みなさんは、分析主体に対して、現存在するdaseinerことだけを要求したりはしません。わたしも今ここにいますが、寧ろ、逆に、どんなことでも言えるといった虚構上の自由を検証しているのですよ。虚構上の自由は、(現実界からは)しっぺ返しとして、不可能なものとなることが明らかになりますからね。要するに、みなさんが分析主体に要求するのは、わたしが今しがた現存在Daseinと称したポジションから立ち去ることです。この現存在のポジションとは、現状維持のスタンスに分析主体が満足していることなのですから。分析主体はああだこうだと訴えることで満足するものです。社会生活がうまく行っていないだの、努力しても横槍が入るだの。そして分析主体は、これが症状であること、現実界からの凶報symptomatiqueであると悟ってもいるのです。そうしながらさらなるものが加わるのです。だが、それは、すべての神経症に認めることができる二次的疾病利得と呼ばれるものにすぎません。 こんな繰り返しは永遠に続くものでないことは明らかですし、わたしにはどうでもよいことです。なぜこのようなことに言及するかというと、これは言説の構造にまさに当てはまるからです。みなさんは他の言説の構造を作り替えねば、さらにはそれらを変革し、みなさんの言説にとって、外-立するex-sisterするものとするしかありません。そして、みなさんの言説に取り込むことで、語る存在parlêtreがその言説の常としている執拗な要求insistanceを枯渇させ、その他の言説のなかに放り込み言葉を詰まらせる必要があるのです。 ところで、このça se jouitは、わたしの三つの領域想像界、象徴界、現実界のどこに住まうのでしょうか。 ご覧ください、まずこれをお解りいただかなくてはなりません。ボロメオの輪の要については、上に描いた図を見て考えてください。ボロメオの結び目をつくるためには、わたしの三つの基本的な固定構造consistancesがかならずしもトーラスに拠らなくても構わないのです。ご存知のこととおもいますが、直線は、無限に引き延ばせば、両端が一点で結び合わさっているとすることができるのです。ところが、象徴界、想像界、現実界の三つのなかで、ひとつは、現実界だけはたしかに、わたしが既に述べてきた特徴に合致します。つまり、完全体をなさない、あるいは、輪を閉じないといった特徴です。 (図3) 同様なことが象徴界についても想定できます。想像界、つまりわたしの三つのトーラスのひとつですが、この想像界だけが円環を描くことができる場所であり、このことで、他の二つの直線とともに、ボロメオの結び目をつくることができるのです。上の図において、これは偶然のことではないでしょう、それは、ギリシャ語のF35)が二つ重なり合って示されていますね。この構造がボロメオの結び目にあると認められてもよいはずです。直線の連関性も円の連関性も取り払ってしまいましょう。その後に残されるものが、一本の直線とひとつの円であれ二本の直線であれ、これはばらばらになります。このことを、ボロメオの結び目の定義としてもよいのではないでしょうか。 思うに、そしてこのことはわたしのテキスト36)のなかでも言及していますが、言語活動は、撚り合った、捲かれた、迂回したかたちでし進みません。このことはここではうまく例示できませんが。言語に対しては、挑戦を受けて立つ姿勢を示したり、どれだけわれわれが言語に頼っているかを指摘すればどうにかなるなどとは思ってはいけません。わたしがそんなに楽観視するわけがありません。このことで悩み続けることだけはしたくないと切に願ってはいますが。 わたしの眼に傑作に見えるのは、言語なしには思考はあり得ないということに気づいていない御仁がいることです。心理士が語られていない思考というものを研究していて、言うならば、純粋思考なるものを認めていることです。先ほど、わたしはデカルト的、「われ思う、故にわれあり」を取りあげました。そこには大きな誤謬があります。なぜならば、思考にとって煩わしいのは、当の思考が自らが延長でもあると思ってしまう点にあります。たしかに、言語により歪曲されていない、純粋な、と言っておきましょう、その純粋な思考としては延長の思考しかあり得ないことは明らかです。そこでです。今日、みなさんに紹介したいのは、そして2時間後には、結局、わたしはこの企てに失敗し、平身低頭しなくてはならないのでしょうが、その企てとは、空間、われわれに共有の空間、つまり3次元空間ですが、この空間と想定できる延長ですが、どうして今まで、それが結び目の側からアプローチされたことがなかったのか、という問題です。 わたしは一寸した逃げ道を用意しています。お馴染みのランボーからの引用で、まさに酔いどれ舟調です。 「吾、もはや曳き舟に曵かれぬ身と思しき」"Je ne me sentis plus tiré par les haleurs37)" 彷徨し、詩に生き、エチオピアに行く、こんなことしなくても、次のような問いは立てられます。なぜ石を切り、ユークリッド幾何学を用いて、ピラミッドの頂上にまでこれを運び上げたのでしょう。どなたもご存知のように、当時は、馬に牽引させることは考えつきませんでした。首輪がなかったからです。当時の人たちは,どのようにして石を引き上げたのでしょう。かれらの幾何学で、まず最初に縄そして結び目が思いつかなかったのでしょうか。どうして当時の人たちは縄と結び目の使い方が解らなかったのでしょうか。最新の数学においても、このことは強調して言いたい、手綱を操れない状態になっているのです。というのも、結び目をどのように定式化してよいのか解らないままなのですから。にっちもさっちも行かないという状況にあるものはいっぱいありますが、ボロメオの輪ではそこまでは行っていません。数学者は、ボロメオの結び目が単なる組紐、組紐のもっとも単純なタイプであることに気づいています。 上の図(図3)をみれば自明のことですが、ボロメオの結び目に対して、直線は、トーラスを成り立たせている構造consistanceが持つあらゆる性質に依拠していないことが判ります。トーラスがどのようなものであっても、少なくとも一本の直線はそうなのです。そしてこの少なくともひとつau moins une、この一本の直線が、もし結び目の部分をどんどん縮小していって、点に見えるようにまでにする、つまり、想像界のトーラスを無限小にまで小さくして結び目が見えなくなるようにしたとして、これが点になるとはどうあっても考えることはできません。なぜならば、二本の直線、わたしが象徴界と現実界という語を割り当てて引いた直線は、見えなくなるまで縮小したところで、言うならば、一方が他方からずらされているからです。なぜ、曲面、平面上の二本の直線が交差し、互いに遮るのでしょうか。考えてみましょう。これと似たものを見たことがあるでしょうが、どのような場合でしょうか。鋸を使わなくてはなりませんが、立体に稜を生ぜしめるのです。そうしさえすれば、一本の線を引くことができます。この鋸で切断するという作業以外には、二本の直線が交わってその交点が点であるとすることはできません。つまり、点をつくるには少なくとも三つのものが必要であるように思われます38)。 もちろん、ここからさらにもう少し先に進むこととなります。このテキスト39)を読んでください。読むだけの価値のあるものです。少なくとも面白いですよ。 ともかくも、やって見せなくではなりません。この図(図4)は、もちろんボロメオの結び目がいわゆる三次元に治まることを示しているように描きました。三次元をわれわれは空間そのものに帰しているように思っていて、どうみても他にはありえないように考えてしまいますし、どのようにしたらこの輪をつくることができるのかなどどうでもよいとしています。ボロメオの結び目はつくられるものです。この空間にそれを位置づかせるときにできるのです。左の図をご覧ください。お判りのように、三つの長方形が一定のずれをもって、全体として紛れなく結び目となっています。このずれが、そのつもりで描いたまでですが、いましがたお示ししたもの、ボロメオの結び目が出来上がっています。 (図4) (図5) さて、ともかく、ここで問題になっていることがなにか、理解できるよう試みましょう。つまり、現実界のなかに、まとまりのある立体がつくられ、このかたちが保たれています。このことから、立体とは宇宙をつくり出すものだということが明らかになります。ところが、驚くにはあたらないことですが、話す主体以外の動物は、かたちに表されないなにかに特異的に反応することから、そこに動物が感じ取るものを想定しながら、それをわれわれはまったく証明できないでいるのです。われわれには見えないものがそこにあります。動物行動学者は、奇妙なことに、このことを括弧のなかに入れたままにしています。みなさんは、動物行動学者とはどういう人たちなのかお解りでしょうか。動物の習性を研究する人たちです。われわれの想像では、世界はすべての動物にとっても世界、われわれと同じ世界だとされますが、こう考えるのに道理はありません。いろいろな証明を交えて、われわれの身体の統一性がこの世界を宇宙だと看做してしまうのですが、それはけっして世界などではありません。不浄界immondeなのです。 フロイトは、ともかくも、ある箇所で居心地の悪さについて書いています。文明の不快40)です。すべてのわれわれの経験はそこから発しているのです。際立って映るのは、身体がこの不快に対して、[ … ](ibid)、不快は、ご存知のように、惹起します。なにをか。われわれの獣性が発する恐怖を惹起するのです。われわれはなにを恐れるのでしょうか。簡単には説明できません。ではどこから恐怖が起こってくるのでしょう。なにに対してわれわれは恐怖感を抱くのでしょう。われわれの身体に対してです。この興味深い現象がはっきり現れるのは身体であり、このことについて、わたしは一年をかけてセミナールで論じました41)。またこれを不安と名づけました。不安とは、身体とは他の場所に位置づけられるなにものかです。不安は疑念から生じた感情であり、この疑念はわれわれに起こり、われわれをわれわれの身体と化すように働きます。ともかくも奇妙なことでしょう。この話す主体の出来損ないは、最後に行き着く先はこうなんですから … (ibid)。だれでも解っていることですけど、不安とは恐怖とは異なり、身体が原因ではないのです。不安とは恐怖に対する恐怖です。そしてこの不安の位置づけは、今日みなさんにお話ししようとすることとおおいに関係が有ります。なにせ、みなさんのためと思って馬鹿げた勢いで書いてしまいましたよ。わたしの原稿は66頁もあるんですよ。もちろん、このままだらだらと続けるつもりはありません。わたしがお話ししたいと思っていることは、少なくとも次のようなことです … (ibid) みなさんのために考えたことは、想像界、象徴界、現実界の構造のそれぞれを正しく捉えていただくためなのですが、このことから、ファロスの享楽が位置づけられる場所は、ボロメオの結び目の平面化mise à platにより、図6のここにある二つの輪の重なる部分です。 (図6) 図の現実界と象徴界の輪の重なる部分は二つの部分から成り立っています。三番目の領域が介入しているでしょう。この介入により、この部分ができます。この部分の締め付けcoincement、この中央部の締め付けが対象aに相当します。先ほど申し上げたように、この剰余-享楽plus-de-jouirからすべての享楽が枝分かれして現れます。重なりの部分の外側、そのうちのひとつ、ファロスの享楽、J(F)42)の部分、ここから、先に述べた身体の外hors-corpsといったファロスの享楽の性格が定められるのです。 同様に同じ関係が左側の輪、そこには現実界がありますが、この輪と意味との関係にも当てはまります。この点をわたしは強調します。既にプレス会議でもことさら強調しましたでしょう。なぜならば、症状を助長するようなことをすれば、現実界は、意味でもってますます生き長らえることになるからです。これとは逆のケースとして、あるものに対して、冗談あるいは曖昧語法とも呼べるものとして、締め付けが強化されるのですが、ここから意味の廃止が強行され、これは、享楽、とくにファロスの享楽に関するものも同様に締め付けがかかるのです。というのも、ご覧の通り明白ですが、これら、意味とファロスの享楽の占める場所は象徴界43)内の異なった領野に位置していますから。 |