ジャック・ラカン
|
(14) 1963 3 13 水曜日 不安と恐怖の違いについて、前回のセッションに引き続いて、話が展開されます。不安がAngst vor etwasというフロイトの記述に準じ、このvor、フランス語ではdevantという前置詞が決め手になりますが、恐怖の場合は、例えばentgegenstehen「対峙する」という動詞の前綴りで、当然それ自体前置詞でもあるentgegenがそれに相当する、とラカンは言います。さらに、不安においては、既にその一端については説明済みのこととして、現象学的には、と留保つきですが、主体が(対象に、既に=小生)締め付けられ、関わっており、内密のinteme1)のものとなっている、と言っています。そして、不安といわゆる防衛装置との関係については言葉を尽くしているつもりだとも言います。つまり、不安は、裏切ることのないものという表現でその概要は示したのだということです。
1) しかし、後にラカンは、extimeという新造語で主体と対象の関係を説明することとなります(Séminaire XVI, 12 MARS 1969)。 2) このprécipitationという語はpassage à l'acteと相関する語です。最後のセッション(1963年6月3日)において、この延長線上で、(メランコリーにおける)自殺suicideについてラカンは言及します。そこでは、幻想の図における菱形losangeが窓fenêtreとして暗示され、当然、défenstrationが連想されます。 次いでラカンは、不安と時との関係について述べます。不安の時というものが存在するのは確かですが、しばしば、この時、この段階が省略されることがあります。ラカンはフロイトの『こどもが叩かれる』における基本的幻想に話を絡めて説明します。2月27日のセッションの小生の解説を読み直してください。二番目の幻想は、不安の時/段階でもあるのです。分析によってもこの時/段階は明らかにされないこともありますが、現象学的に評定できることもあり、この時によって支えられている不安を越えることができたとき、欲望が確立されます、と締めくくります。 去勢不安とペニス羨望について言及し、対象aとー(マイナス)との関係に触れますが、これは後のセッション(1963年5月29日)でもっと明確なかたちで述べられますので、ここでは省きます3)。 3) マイナスが付されることにより、欲望となるのですが、そこにはラカン一流のイロニーを汲んでいただきたいと思います。ラカンに対して、マッチョで、論敵を徹底してやり込めるイメージが肥大しすぎています。ラカンには、エロスと関連するとき、自嘲的なところautosarcasmeがあるのです。この古典からの一節を引用したのも、ラカンのこのautosarcasmeがあって、と読み取るべきです。ペトロニウスのサチュリコンからの詩の一節を読んでください(V.
A. の注〈フランス語〉からの重訳〈拙訳〉です〈岩波文庫版は絶版で入手できません。嘆かわしいことです〉。 サディスムにおいて、<他者>との関係において、はっきり見て取れるのは、マゾシストの場合と同じように言えば、<他者>への不安angoisse
de l'Autreです。 4) とV. A. にありますが、つまり、自明のこととして多くの分析家が定式としているのは、sadisme, masochismeの幻想の第三番目のものであり、ラカンにとってさえ見えにくいものではあるが、第二番目のものが究極的な幻想である、とラカン自身認めているのです。それゆえ、サド的欲望の対象がノワールな(つまり、見えにくい)フェティッシュであると言う帰結もここから導き出されます((8) 1963 1 16 水曜日のセッション参照のこと。また同じ言葉がKant avec Sadeにも認められることに注目しましょう)。因にV. M. ではこの部分は省かれています。またAFI版では別な校となっています。 Nous nous trouvons donc, entre sadisme et masochisme, en présence de ce qui, au niveau second, au niveau voilé, au niveau caché de la visée de chacune l'occultation réciproque : de l'angoisse dans le premier cas, de l'objet (a) dans l'Autre (V. A.) Nous nous trouvons donc, entre sadisme et masochisme, en présence de ce qui, au niveau second, au niveau voilé, au niveau caché de la visée de chacune de ces deux tendances, se présente comme l'alternance, en réalité l'occultation réciproque de l'angoisse dans le premier cas, de l'objet a dans l'autre (AFI) 対象aの眼につきやすい特徴ともいうべきものついては、旧来から論議されてきましたが、その重要性については、認識されないままにあります。フロイトが何カ所かで同様に言っている「アナトミー、それは運命、アナンケーである」という定式が対象に対する誤った認識として定着してしまったからです。男女の解剖学的性差と性愛の差とについてフロイトとのは、これから何度か触れますので、後のセッションのところでまとめて説明したいと思います。 このセッションで、注目すべきアフォリスムが出てきます。愛だけが享楽が欲望に恵みを与えてくれることを許したまうSeul amour permet à la jouissance de condescendre au désirです。このアフォリスムは、例えば、セミネールXX巻『アンコール』の次のパッセージにも繋がる、ラカンによる愛の定義でもあります。 偶然性を、わたしは、書かれないことを止めるcesse de ne pas s'écrireで示しました。というのも、そこにはまさに出会いがあるからです。症状、情動を伴ったものにおいて、それぞれにおいて、その脱出、主体としてではなく話す者としての脱出、性的関係からの脱出を刻印するものすべてとの出会いがあるからです。こうは言えないでしょうか。つまり、情動を通じてのみ、この深淵から、なにものかの出会いが起こるのです。それは知の次元において、絶え間なく変化することが許され、しかしある瞬間、幻想illusionをもたらすのです。性的関係が書かれないことを止めるといった幻想です。単になにかが語られるだけでなく、記される、各自の命運において記されるという幻想です。この幻想を通して、暫しの間、これは宙づりになった時間ですが、 性的関係がもしあったならばのはなしですが、この性的関係が、語る人間において、自分の痕跡と幻への道を見出すのです。書かれないことを止めるcesse de ne pas s'écrireから書かれることを止めないne cesse pas de s'écrireへの否定のneの移動、偶然から必然への移動、そこに宙づりになった時間がやってくるのです。そしてすべての愛はそこに繋ぎ止められるのです。(Séminaire XX, Seuil, p.132) AngoisseとEncoreとの間にはかなりの距離がありますので、ここではJ.-A. Millerの簡潔明瞭な説明を付記します。
なぜラカンは、このセミネール(この『不安』のセミネールのことです)において、執拗なまでに、小文字のaを主体の側に、<他者>ではない側に位置させたのであろうか。小文字のaは、いわば、自分に固有な身体の享楽の表現、変形であり、自閉的、閉じたといった言葉で示される享楽だからである-ラカンは、aを、フロイトのものdas Dingとも呼べる次元まで閉じたものにしてしまったのである-一方で、欲望は<他者>と関係する。それゆえ、享楽と欲望とはそれぞれ自律したものであり、両者の間には溝がある。享楽は、簡単に言ってしまえば、場所として、自分に固有の身体であるが、欲望は<他者>との関係を結んでいる。このような腑分けはまた、10年後、セミネール『アンコール』で大きな展開を見ることとなる。(J.-A. Miller, Introduction à la lecture du Séminaire L'angoise de Jacques Lacan, La Cause freudienne no. 59, p.76) 別のアフォリスムが続きます。愛は欲望の昇華であるl'amour est la sublimation du désir、ついで、わたしが愛する者であることを表明することは、 (a)の欠如になる決意ができていることであり、そこから、わたしは、わたしの身が享楽へ晒されるのを覚悟して、心の扉を開くme proposer comme désirant, érôn, c'est me proposer comme manque de (a), c'est par cette voie que j'ouvre la porte à la jouissance de mon êtreさらに、女性に出会うこの企ての道において、(a)からの要請で、<他者>への不安が引き起こされることは必至である。わたしは<他者>を(a)としてしまうしかないからであるToute exigence de (a) sur l voie de cette entreprise de rencontrer la femme, ne peut que déclencher l'angoisse de l'Autre, justement en ceci que je ne le fais plus que (a) Didier Moulinierによると、次のようになる。すなわち、「性的関係の袋小路は、男性と女性のふたつの極の配役のぶつかり合いに基づく。男性側は、たいてい、倒錯的であり、<他者>を小文字のaに作り替えてしまうし、女性側は、『他の享楽』autre jouissanceが現に存在することを主張する。しかし、この『他の享楽』については言葉では言い表すことができないのである」(http://www.etudes-lacaniennes.net/Etudes/Psychanalyse/jouissance/joui-amour.htm extraite le 27 jan 2008 23:41:09 GMT.)。この『不安』のセミネールにおいては、まだ、「性的関係は存在しない」といった、セミネール『アンコール』においての中心的テーゼは提出されていませんが、ここの件において、ラカンはすでに、この問題を先取りしていたと看做すことはできるでしょう。 昇華については、Séminaire VIIの再検討が必要でしょうし、Séminaire XVI, 5/3/1969-4/6/1969にかけてのセッションが重要であり、宮廷風愛amour courtoisとの関連も絡んでくると、大論文になりますので(次のセッションで扱う、ドン・ジュアンの問題も書いていたらきりがありません)、今回はここら辺で締めさせていただきます。(2008/02/04) |