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ラカン勉強会

(12) 1963 2 27 水曜日

Piera AulagnierがMargaritte Littleの1951年に発表した逆転移に関する論文(仏訳)、1956年に発表したtotal responseに関する論文を紹介します。1951年の時点で大文字のRつまりtotal responseについて、Littleは言及しているようです。このresponseは、仏訳ではaux besoins de ses patientsと繋がっています。ここでAulagnierがこだわります。besoinはつねに身体性corporalitéについてしか語られていません。manqueに繋がる語は見出せないようです。逆転移contre-transfertについては、この概念が分析家によってまちまちなので、どのようにしてラカンに、ラカンのセミネールに結びつけたらよいのか途方に暮れていますが、Littleにとっては、「 … 抑圧された要素であり、それゆえその時点においては分析されないまま、分析家はそれら要素を患者に同様にむすびつけ … (どうもこの仏訳がおかしいようです。途中からAlagnier自身がその場で訳そうとします)患者は分析家に感情を転移させ … 云々 … それは、患者の両親にあるいは患者の幼児期の対象に属していて … つまり、分析家は、患者のことを(一次的に、あるいは様々なかたちで)患者が自分の両親を見ているように見つめているのです」、と怪しいです。ともかくも、Margaret Littleにとって、逆転移とは、分析されないまま残された部分が、最終的に、分析は、つまり、そこから引き起こされた反動として出現し、それは分析家に分析されないまま遡及的にしか解釈されるしかない、つまり分析家が事後的にその意味を理解したとしてです。また分析で患者に面と向かっていると、分析家はかれの両親の役割を演ずるようになります。ついでréponse totaleについて、Littleは説明します。かの女はresponsabilitéはもちろんのことですが、かの女はそこで、現実の人間としての分析家を強調します。Lilttleが扱っている患者は、(1月30日のセミネールでは、ラカンは、性格神経症névrose de caractèreあるいは反動的パーソナリティーpersonnalités réactionnellesとLittleが名づけていたと言ってましたが)border-lineに相当するとAulagnierは言います。このようなタイプの患者の治療を引き受けるとしたら、だれも治療者に分析家であることを強要しません。100パーセント責任を取ることが必要なのですからと。なぜそうすべきかというと、この種のタイプの患者は分析家の責任がなにか解っていないから、それを意識化させる必要があるのです。Littleは分析家への同一化が補助の自我として役立つという神話に拠りかかっていたのです。Aulagnierはここで、そもそも、われわれ分析家は、患者にわれわれの責任について意識化させることなどできるのでしょうか、と疑問をぶつけています。Margaret Littleにおける分析家ー被分析者の関係を凝縮したかたちで示せば、ひとは-分かち合う-ことができる-なにか-とともにあり-それを必要として-求めている-だれか-に出会うとなります。spareという英語は、こうです、わたしは一人きりで劇場に行きます。すると誰かが二枚のチケットをわたしに差し出します。もちろんわたしには一枚のチケットをそのひとに渡し返さなければなりません。Littleの分析における出会いとはこのようなものです。この種の患者には、人間として当たらなくてはならないとして、どうするのでしょう。「分析家は患者に自分の感情を示すことができなくてはならない」とかの女は言っています。さきほど、逆転移とは分析されていないなにものかとして示されましたが、それを言葉でか、態度でか、なにによってかはさして重要ではないのですが、Littleがいうには、衝動的な反動として表されるのですが、それを患者に与えることが功を奏するとまで言っています。分析家の生の人間を示すことの意味とは、それを患者に吸収、体内化、規格化して魔術的取り入れによって達成させることです。réelな人間とLittleは言っていますが、Perrier氏が紹介したSzaszのようなリゴリストでも患者からすれば、それがSzaszというréelな人間と映るかどうかです。

 un cas psychotique, pendent 10 ans, … Ilseの死、substitut parental, Margaret Littleが泣きじゃくるFridaに対してどう感じたかをわれわれに語っています、「思い起こせば、わたしは、もしそこで、わたしの患者が死んでしまうのでは、といった想到に向かわなかったら、つまりそうすれば、かの女はわたしと別れることになるのですが。なぜ死ぬか。あるいは自殺するかもしれないし、あるいは食事もとることもなにもすることもできないまま衰弱死するかもしれないので」と。Littleはひどく動転します。これを契機に移動déplacementがおこります。分析家はどうなったかですが、そこに不安が生じるのです。分析家は不安の場所に位置しますが、この不安の対象は患者です。Littleは介入しますが、感情をもってです。その感情はかの女にとって無意識的なまま残されたものresiduから発するのです。じぶんがLittleの不安の対象であることを知らされると、Fridaはacting-outを繰り返します。狂言自殺に続いて盗癖の回数は以前にも増して頻回になります。Littleはrésposabilitéに忠実に、しかしここでも逆転移が働いているのか、このresponsabilitéの裏返しのように、この少女には責任能力がありませんので、とある種の保証書を与えます。盗癖は一向うに治まりません。とうとうLitttleは自分の力が及ばないことを告げ、治療の中断をFridaに提案します。この転換点は切断の効果として働きます。かの女は分析家にひとつのプレゼントを贈ります。それは基本的幻想fantasme fondamental1)でした。球形の、完全なかたちをしたカプセルという幻想でした。去勢、空虚というものを受け付けないようにするため形成されたのだが、それが切断により、空虚のある主体となることができたのだと。

1) 周知のように、フロイトのOn bat un enfantにおいて、幻想は3段階にて示されます。分析主体が。分析のセッションのなかで、最初に語るのが、第3番目のもので、これがOn bat un enfantです。第1番目のものは次に語られます。これはLe Père bat l’enfant haï par moiといった言表で示されます。第2番目のものこそ、基本的幻想なのですが、これは語られないままにあるのです。この基本的幻想は、Je suis battu par le Pereでしめされるのです。

 ラカンはLucie Towerのcontre-transfertの定義を重視します。かの女によると逆転移とは、「分析家が、分析を通じて、シニフィアンとして受けとったものを抑圧すること」(V. A. p.138)です。ここからラカンは、その内実は、分析家の欲望だと結論を導きます。この問題、逆転移の問題が現在も解決に至らないままにあるのは、欲望の位置づけができていないからだと言います。だからこの年のセミネールで、この解決に向けて決行しようというのです。まず欲望と法との同一性について明らかにしなければなりません。エディプスを巡る分析の教義において、法の内実となっているのは母親への欲望であることは明らかです。逆に、欲望そのものを規範に従わせるものは近親姦の禁止の法です。

 ここで再びサドの問題に立ち戻ります。サドにおいて(サディスムにおいてではなく)、欲望は享楽への意志volontéですが、そこには迂回があります。サドの迂回であり、サディスムの迂回ではありません。マゾシスムについても当たっているからです。分析の経験からも、倒錯においては、欲望は、自らが法となるものとして現れます。つまり、法を転覆することを目論んで、自らがある法の支えとなります。倒錯者についてわれわれが知りうるのは、「際限のない満足として、リング外に現れるとしても、それは防衛が働いているからですが、それでも競技はつづけられ、これはある法に従っているのであり、この法とは、ブレーキをかけ、ストップをかけますが、その向かう先は享楽なのです」(V. A. p.138)。倒錯者の享楽への意志も挫折する意志であり、その限界というものがあり、ブレーキがあります。倒錯者は、どのような享楽に自分の活動を奉仕として提供しているのかわからない者です。自分の享楽の為でないことは確かです。

 ラカンはここで一旦、神経症で問題となっていることへ位置をずらします。神経症以上に、法に従ってしか欲望を抱けない典型はありません。神経症者は自分の欲望において、不満足なものとして、あるいは不可能なものとしてしかその欲望への自らのステータスを与えることができない者です。神経症者に端的に見て取れる道徳法の神話とは、つまるところ道徳法の健全なる位置づけであり、それは法の主体としての主体の自律です。しかし法は実は他律的なものなのです。それゆえ、ラカンは法が由来するのが現実界からであるということに執着するのです。現実界は主体に介入してと同時に、主体を抹消します。これが抑圧と呼ばれているものです。その共時的な機能を痕跡を消すという点に見出すことができます。しかしシニフィアンの回帰も痕跡として示されるのですから、そこにはアポリアが生じます。回帰してくる現実界、シニフィアンと主体の抹消、ここから「あるシニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表する」というテーゼが導かれます。

 マゾシストの話になります。マゾシスムは倒錯の概念を宙づりにする謎に満ちたものです。マゾシストは享楽するのが<他者>であることはよくわかっています。つまりさきほどラカンが述べた「倒錯者は享楽について知らない」という事実と矛盾することになります。マゾシストは享楽するのは<他者>だということがわかっていて、かれはそれを求めているのではありません。かれが求めているものは、<他者>の不安l’angoisse de l’Autreです。

 そして不安の問題の核心に迫ります。不安信号は危険を知らせるものです。外部にある危険ではないとフロイトは言っています。自我にとっての内部の危険ですと。しかしこの「内部の」interneをラカンは承服しません。『精神分析の倫理』で展開させた『科学的心理学草稿』の読み直しに立ち戻ります。

… 内部の危険というものがないのはこの外膜enveloppe、つまり神経装置のことです-この 装置の理論として草稿は書かれているのですから-、外膜には内側intérieurというものがありません。なにせ外膜は一葉の曲面でしかないではありませんか。構造として、知覚と意識との間に挿間されたものとして、psiシステムは他のautre(太字=小生)次元に位置しています。他autreとして、シニフィアンの場所としての<他>Autreとして位置しているのです。
 それゆえ、不安をわたしがそうしたように導入してから、今年のセミネールより前からですが、つまり、<他者>の欲望そのものの次元において特別な表し方をもってです2)。このように迂回させたかたちで<他者>の欲望が表しているのはなんでしょう。
 そこに信号の意味があるのです。この信号が、トポロジー的に自我と呼ばれている場所において生じてくるとしても、それがかかわるのは自我とは別のものです。自我が信号の場所だとしても、信号が与えられるのは自我に対してではありません。これは自明のことです。それが自我のある場所で点火されるとしても、それは主体、主体と呼ぶしかありませんので、主体がなにかを知らされるのです。
 主体はなにかが、つまり欲望が現れてきたことを知らされるのです。欲望とは欲求とはなんの関係ももたない要求です。関係をもつとするとそれはわたしの存在そのものとです。この存在を問題視するのです。端的に言えば、主体は存在を消してしまいます。主体は、そこに居るものとして自我に対して話しかけてきたりはしません。自我に対しては、お解りでしょうが、断じて失われたものとして話しかけてくるのです。そして主体は、そこに<他者>が居座させるため、わたしの消失を促すのです(V. A. p.140)。

2) L'Identification 1962年4月4日, 5月2日, 6月27日

こうして、ラカンにおいては<他者>の欲望は、ヘーゲルの場合と異なって、<他者>が承認を求める、わたしの自己意識を見出すことがありません。そこには暴力は起こりえません。「わたしは、暴力、闘争から免れることができているのです。」(V.A.P.141)。

… <他者>はわたしを原因の位置に置きます。そしてわたしにわたし自身の欲望の根源について問います。aとして、その欲望の原因としてで、それを求めてではありません。そしてそこにおいて、先行的に、時間的に先行してです、<他者>は目論みます。わたしがそこから身を引くことができないで、おのれを晒すのです。この時間的次元が不安を生むのです。そしてこの時間的次元は分析の次元でもあります。それだから、分析への欲望は、わたしのなかに、この期待attenteの次元を惹起するのです(…)わたしは敢えて、<他者>(分析主体)がわたしを好きなように見ることを、わたしを対象とすることを厭いません。

欲望をヘーゲルのように闘争との関係で捉えないで、愛との関係で捉えることもできるのです。とラカンは言います。また、逆転移については、なぜこうも女性分析家の発表が多いのかという疑問には、なにせかの女たちは絶対多数の意見を言うのだから怖いものがないと。ところでかの女たちの発表で興味深いものはどれか、とさらに問いを投げかけますが、わたし(ラカン)の話を迂回しないで、つまり欲望の機能について、愛における欲望の機能についての話にもってゆかなければ明らかにならないと片付けてしまいます。気を持たせておいて、最後にはこう言います。「欲望は愛する対象とは関係を持たない」(V. A. p.141と)。

 結局のところ、GranoffもPerrierもAulagnierも大変な思いをしてラカンが指定した文献に眼を通し、各人各様に貴重な発表をしているのですが、ラカンに梯子を外されたかたちになりました。しかし誰も文句は言いません。ラカンの話はまだまだ続きますので。(2008/01/18)