ジャック・ラカン
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(10) 1963 1 30 水曜日 「不安は、対象なしにはありえない」というテーゼは既に出されています。ではそこで対象とはどのように表されるのでしょうか。どうゆう対象か、という問いには答えられないので、むしろ確言的に、不安は、欠如manqueに関連して精神分析に導入されるのです、となります。論理学の歴史において、当の論理学はこの欠如を隠蔽し続けることに成功してきましたし、論理学の成功は隠蔽によるともいえます。いわばこの失策行為acte manqueは、論理学において、パラドックスとして取りあげられますが、ラカンは、パラドックスを糸口として、精神分析は固有のスタイルが課せられ、失策行為をも成功に導くことができるのでは、つまり空虚をしくじらないようにne pas manquer au manqueすることができるのでは、と意欲を示します。 欠如manqueは象徴界におけることがらです。例えば、空虚は場所を、その場所が空いていることを示します。空虚videが現実界にかかわるもの、穴trouが想像界にかかわるものであることを心に留めておいてください。 Le sinthomeにおいて、ラカンは視覚によって誤らせる空間についての直観に言及しながら、現実réelの空間というものは存在しない、と言っています。3つの次元は言葉で3つ数え上げてできたものに過ぎず、それはいわゆる幾何学の法則に従ってはいるが、それらの法則とは、運動感覚的に描かれた、つまり口-肛門的によって描かれた大小の球ballon, bouleだと奇妙なことを言いますが、ついで次のように続けます 小文字のaとわたしが名づけた対象は実際、唯一無二の対象です。このものに対象という名を与えるのは、対象objetはobつまり同心円上にconcentrique描かれる想像的延長、包括的な想像的延長をかく乱するobstaculantものだからです。対象は概念で捉えることができる、つまり手で掴むことができるとされます。ドイツ語のBegriffとはそうゆう語意があります。実際は飛び道具である武器arme de jetなのですが、Armとはドイツ語で腕のことです。腕がかってに延びてものを掴んだり、ブーメランのように鉄砲玉bouletが戻ってきたりはしませんからね(Lacan, Le sinthome, Seuil, p.86) 主体のex-centriqueな構造については、例えば、La place que j'occupe comme sujet de signifiant est-elle, par rapport à celle que j'occupe comme sujet du signifié, concentrique ou excentrique ? (Ecrits, p.516-7)とあります。先のセッションでの小生の説明のように、結び目で示される次元はdit-mensionであり、三つ葉の結び目の中心にある穴である小文字のaは3座標軸の交点で示される実体をもった点ではなく、結び目を3方向に引っ張ったとき、締め付けられるserré, coincé空でしかないのです。 1962-3年においては、ラカンは、曲面のトポロジーを論じている段階にあります。曲面のトポロジーは、いわば、象徴界の想像化imaginalisationです1)。人間の主体には、構造上の欠陥vice de structureがあり、これを想像化した曲面のトポロジーにおいては穴trouとして示されますが、この穴を巡って構造を示すためには切断が必要になります。先のセッションにおいて、射影空間(クロス・キャップ)は4次元空間に埋め込まれている、と小生は説明しましたが、これはあくまでユークリッド的次元においてです。トポロジー上は、切断が線という一次元に属するものによってなされる以上、どのような曲面も2次元なのです2)。 1) Vappereau, J.-M., Étoffe,
p.IX この日のセッションでは、ラカンは、まずトーラスを円という閉じた切断coupure ferméeで分解しますがV. M. とV. A.とではこの線の軌跡が違っています(図)。ついで、クロス・キャップの切断です(図)。ラカンは次のように言います。 …どのように切断しても、同心円に重なる形としては現れては来ません。それぞれはまったく違った形です。双方とも同じ8の字を描いていますが(図fおよびg)、同心円、つまり円の中心である点を共通の中心点とする軌跡ではないのです。 このなにものかを、その輪郭についてわれわれはしばしば描くとしても、そのもの、つまり欠如の構造をもったものについては忘れているのです。<他者>との関わりにおいて、あらゆる象徴化への可能性はこの構造上の欠陥に結びつくのです。ここからシニフィアンは生じてくるのですから。このシニフィエにはなり得ないシニフィアンが生じてくる点をラカンは、シニフィアンの欠如の点point manque de signifiantと呼びます。 さらに補足して、「象徴界の次元にはなにも欠如しているものはありません。ただ剥奪があるのです。そして剥奪3)とは現実界に属するものです4)」と言いますが、これはMargaret Littleのtotal responseを導入するためです。ラカンはLittleのkleptomanieの症例Fridaを取りあげます。Littleはかの女の患者を3タイプに分類しています。精神病に対しては、「すべての責任を受け入れる」ことは不可能であることはかの女自身認めるところです。神経症に対しては、責任の大部分を主体/患者に負わせる、といった手法は当を得たものです。しかし、この両者のあいだに位置する患者、性格神経症névrose de caractèreあるいは反動的パーソナリティーpersonnalités réactionnellesとかの女が名づけた第3型(Alexanderが神経症的性格neurotic characterと名づけたものに相当します。ラカンはこれらのものを特定の類型に分類することには懐疑的で、まさにacting-outを巡って話を展開すべき、としています)に対して、とくにかの女はかの女のtotal responseを適用させていったのでしょう。 3) privation, frustration, castrationについては『対象関係』1956年11月28日のセッション等を参照のこと。 4) 3月20日のセッションで、ラカンははっきり、il ne lui (au reel) manque rienと言っています。 このセッションでは、ラカンはFridaの症例については簡単な紹介にとどめ、かの女の母親がかの女に対して極端に支配的であったこと、かの女は母親に対して道具にすぎなかったこと、ラカン的図式にしたがえば、かの女は<他者>である母親の欲望の対象でり、この<他者>の享楽を実現すべき、<他者>の要求、つまりつねにファロス(それは現実の対象に他なりませんが)を供給するために、かの女は使い走りとなっていたのです。kleptomanieが言わんとするのは、「わたしは、あなたに、どうにかこうにかして奪った品objetをみせます。ということは、あるところに、別のobjet、わたしのobjet、aがあるということです。この対象こそ評価に値するもので、暫し、別のところに隠しておかなくてはならないものなのです(V. A. p.110)」ということです。 Fridaの分析において転機が訪れますが、それは、かの女がかの女の両親の友人で、かの女を両親とは異なった愛を注いでくれた女性のナチス政権下におけるドイツでの死でした。この訃報に対する喪(Fridaはセッションのなかで、泣きじゃくり、強い情動の発露が窺えました)の反応を見たLittreは、自分の心情を包み隠さず分析主体に明かしました(これこそMargaret Littleが是としてる手法です)。喪の反応はFridaがそれまで示したことのない、欠如manqueを提供するもので、Littreはこの欠如に対して不安の感情を吐露したのでした。この怪我の功名的な分析家の介入により、治療は進展することになります。この介入は、少なくとも、切断の機能を果たしたことになったのです。 翻って、ミレール版の表紙にもなっているエッシャーのメビウスの輪上を進む蟻のことが再度語られています。メビウスの輪は縁が内部の8であり、繰り返しラカンはこの軌跡をirréductibleだと言います。蟻は対象、つまり、クロス・キャップの切断によって、メビウスの輪(鏡像となりうるもの)を取り除いた後にのこされたもの(鏡像にあらわれないもの)を求めながら、果てることのない彷徨をしいられているのでしょうか(図)。マクベス夫人の強迫洗手の話に戻ります。血痕、ロートレアモンが大洋の水すべてをもってしても、この知的な血痕を洗い流すことはできまい、と書いているように、シニフィアンというものが、痕跡を消すという本性によって裏打ちされているように、欠如しているものを象徴は代補できない。強迫神経症の打ち消し、否定は痕跡を消そうとするシニフィアンの本性に沿うものであるが、痕跡を消した痕跡、シニフィアンとしての痕跡がその都度残ってしまうのです。構造上の欠陥はそれを取り繕うとすればするほど打ち消しがたいものとして主張してくるわけです。 フロイトの不安理論の折り合いそうもないふたつの側面、もっとも根源的な危険、この世に生まれてきたとき味わされるよるべなさHilflosigkeitへの抵抗、そしてこれにくらべるとはるかに危険度が低い自我によって知らされる危険信号に話が立ち戻ります。ラカンは後者の不安は危険そのものに対する防衛ではなく、不安が向けられる信号への防衛であると強調します。信号とはなにかというと、ある種の欠如なのですが、そこにはふたつの異なった構造が存在します。フロイトの不安理論のパラドックスを克服することがラカンの目論見です。1月9日の図28,29に戻ってください。28ではi'(a)は、理想自我として平面鏡の右側に示され、対象一般が構成される基となります(p.78)。一方クロス・キャップを切開して(分析を通じて、対象は切り取られて対象aが残される、と考えることができましょう)、鏡像となりうるものを取り除いた残りの部分、ラカンが円盤と呼ぶもの、これが対象aであることがわかります。このふたつの像、前者は左図の花瓶の縁の欠如が自己愛的像に関係を持つこととなり、後者では、縁のまわりを2回転(内部の8を描いたもの)することにより、切り取られた円盤である対象aと関係を結ぶことになります(図p.105)。そして、転移とは前者から後者への移行であるとラカンは明らかにしています。Fridaのケースでは転移はMargarete Littleが示す、いわゆる逆転移がこの瞬間にあたるのです。 次の週、ラカンはスキーに出掛けて不在となりますが、ラカンが紹介したMargaret Littleのtotal responseについての論文、Barbara Low, Lucie Tower, Thomas Szaszの逆転移についての論文の読解を聴講者(有志のようです)に任せ、セミネールは続けられます(V. M.にはこの部分は割愛されています)。(2008/01/11) |