ジャック・ラカン
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(9) 1963 1 23 水曜日 図31, 32が黒板に描かれています。S, A, S barré, A barréの位置関係ついて、V. A.とV. M.ではかなり記述に違いがあります。共通する時点から始めましょう。 左下に位置するaについて、前回のセッションで導入したフロイトの症例である若き女性同性愛者を巡って、かれ自身が用いた言葉niederkommen lassen, laisser tomber1) の意味について、当のフロイトが気がつかなかったことがあるとラカンは指摘しています。この「落ちるにまかせる」あるいは「落とす」をpassage à l'acteの次元で捉えると、上記の図のどの視点から見られているのかという問いが生じます。それは主体の視点からです。passage à l'acteにおいては主体は幻想のなかにあって、barreによって最大限に抹消されたものとして現れます。このembarrasの極みの瞬間において、行動を伴って、主体は、いうならば、一気に身を投げますse précipite。かれが居るところからです・・・ (ibid)つまりシーン、舞台からです。シーンは、主体は主体の資格のなかにおいて、歴史に記されたものとして、根源的に主体であることができるのですが ・・・ (ibid)つまり主体はまったく逆の側、シーンの外に移行してしまうのです。 1) Ines Rieder, Diana Voigt ≪Sidonie Csillag - homosexuelle chez Freud, lesbienne dans le siecle≫ によると、フロイトのテキストにはこのlassenという語は見出せず、これはラカンがフロイトの責任放棄に対する批判をこめて付け加えたのだとしています(ibid. p.397)。 ドラの場合、embarrasの極みはK氏に「わたしの妻はわたしにとってとるに足らぬものだ」ma femme n'est rien pour moiと告白されたその時であり、かの女はK氏に平手を与える。この平手を同解釈するかですが、これをかの女が愛しているのは、K氏なのかK夫人なのか、といったジレンマの曖昧さに止めておくべきではありません。平手は単なる兆候であり、ドラはその場scèneから逃れます(太字=小生)。この行為こそpassage a l'acteであり、acting outとは区別されるべきものです。失踪、家出fugue(精神医学用語として「遁走」と訳されていますがbizzareです。家出あるいは失踪するひとはかならずしも走る訳ではないでしょうから。同様にフーガを「遁走曲」と訳すのもどうでしょう。アダージョのフーガだってありますから)。fugueは子供じみた行為とされます。scène(家のなかのscèneは諍いです。scene de ménageは夫婦喧嘩ですしenfant qui fait une scèneは駄々をこねる子供、癇癪を起こした子供です)から出てゆき、徘徊し非行少年/少女はなにかを求めています。出会うものは捨てられ、拒絶されたものです(ドワネル少年を思い起こしましょう)。家では心配しますIl se fait mousse。もちろんかれは帰ってきます。外で過ごしてきたことを自慢するためです。 不安の問題にさらに深く切り込んでゆく前に、acting outについてお話をすると予告していたラカンは、acting outは不安への道の(passage à l'acteとは)別な迂回路にあり、またもや迂回路かと批判されるかもしれないが、と言いながら、このacting outについての話にもって行くのに、また回り道をします。 再び、schéma optiqueを用いて、話を展開させます。フロイトは自我において生ずる不安信号について、曖昧さを残したままにしています。ラカンは信号の位置をi'(a)の理想自我に示される像に見出すことができる花瓶の口の上におかれたXに示します。これは自我の想像的領域における縁の現象に当たります。この位置づけが正当性をもつ所以は、フロイトは『自我とエス』のなかで、自我はsurface(表面であるが曲面ともとれる)であり、さらにこのsurfaceの投射であるとも付け加えている事実に依拠できるのです2)。 2) Das Ich und das Es, GW XIII, p.253, ・・・ es (das Ich) ist nicht nur ein Oberflächenwesen, sondern selbst die Projektion einer Oberfläche. i'(a)で表される理想自我の機能とは、この理想自我の場所で、自我は、なんらかの複数の対象に一連の同一化により、構成されるのです。フロイトは『制止、症状、不安』のなかで、安易に、不安信号の布置が形成されるのは、生下時の新生児の血管運動性反応、呼吸困難としていますが、分離不安というものを云々するのであれば、この最初の分離において、主体が分離するのは母親ではありません。胎児は子宮内において卵膜に包まれ、羊水のなかに浮かんでいます。卵膜は母体由来の脱落膜、胎児由来の絨毛膜,羊膜からなり、一部分が胎盤として形成されます。胎盤はいわば寄生的に形成される母体と胎児を連絡する器官であるといえます。母体由来の基底脱落膜と胎児由来の絨毛膜有毛部とが複雑にからみあっています。分娩時にこどもは文字通り生下つまり落ちるのですが、同時に羊膜も落ちます。分離するということであれば、こどもは、生下時、羊膜と別れるのであり、鏡像段階以前ということにあえて言及するならば、aはこどもの身体の一部でもあった羊膜であるといってしかるべきです。因に、Identificationでは、ラカンは、胎生学における各胚葉の他の胚葉への陥入をクロス・キャップの構造とのアナロジーで捉えていました。 ようやくacting-outの説明に入ります。passage à l'acteと異なり、acting-outは「落ちるままにならないよう、自分をしっかり掴んでいるse tenir par la main pour ne pas laisser tomber」のです。ここで代名動詞se tenirをさしあたり、「自分を掴む」と訳しましたが、それはaです。 男根的女性femme phallique(ここでラカンがいっているのは男性的な女性のことではなくほぼ、mère phalliqueのことです)においては、女性に欠けているペニスをつねにこどもに要求しながら(つねにこどもの背後にくっついていて、お尻を拭きことtorcher le culに余念のない母親です)、ある日、このこども自身が落ちることを放置するのです。またまた寄り道のようですが、ラカンはこの後で、ジロドーのエレクトラについて語りたかったからfemme phalliqueを持ち出したのでしょうか。ただ、次のセッションで取りあげる、kleptomanieの症例Fridaの母親は、まさにfemme phalliqueといっていいようです。 さて、Sidonie Csillagの場合、自殺未遂はpassage àl'acteですが、Léonie von Puttkamerとの逢い引きはacting-outに相当します。ドラの場合、平手打ちはpassage à l'acteですが、K氏との交際はacting-outです。 acting-outは自ら示そうとする行為です。Sidonie Csillagにおいては、Léonie von Puttkamerと白昼堂々と手に手を取っての散歩です。ところでなにを示そうとしているのか、そのものとは他のものです。そのものは誰にも判りません。しかし他のものははっきりしています。フロイトは『かの女は父親の赤ん坊を欲しがっていたに違いない』と言うことができました。しかし赤ん坊を欲しがるといっても、この場合、母性本能とはなんの関係もありません。かの女はなにを欲していたのか。フロイトは赤ん坊をファロスとして、その代理として欲していたと言います。しかしラカンの切断と欠如のディアレクティークによれば、aはこの切開により欠如したものとして落ちます。ちょうど、騎士がDameに恋をし、自分のファロスを犠牲として捧げるようにです。他のものとして示されるそのものとは ・・・ 欲望の原因としての対象です。残りものreste、落ちるものが示されるのです。それは『ヴェニスの商人』における半キロの肉塊です。このエピソードは1963年5月8日に再度取りあげられます。ここでは、1963年11月21日に出てきた図9が再び登場します。ひとは必然的に<他者>から借りをつくります。借金は穴です。お金はなんらかの用途に使われるとすると、その分主体にはお金が残りません。また<他者>にもその分穴があいたままです。でもそのお金はそもそも<他者>のものですから、主体の分割(これはdivisionで割り算でもあります)は<他者>に負うているものであり、<他者>にも斜線が引かれます。sujet diviséと割り算の余りaは結局<他者>のものなのです。シャイロックはバランスをとって、アントニオそのものを要求しません。かれの一部の肉塊だけなのですから(後に問題になる、譲渡できる対象objet cessibleーこれがobjet aですーと交換できる対象/商品objet d'echangeあるいはobjet communの対比が描かれているのです。シャイロックにとっては「金が返せないのなら等価交換として肉をかえせ」です。しかしアントニオにとっては、自分の肉体は,もしいその一部が切り離されるとしたら、文字通り対象となるのですから)。Krisの患者の生の脳みその例がここでも取りあげられます。患者はKrisに言います。「あなたの言っていることはもっともです(つまり、患者は他の作者の作品を剽窃などしていませんでしたし、そのことはこの患者もわかっていました)。でもそのことは問題の核心には触れていません」と。そうして、セッションを終えると、生の脳みそを食べにいったのです。それを、その次のセッションで語るためにです。 acting-outと症状との関係はどこにあるのでしょうか。acting-outも症状です。双方とも、解釈されることを求めています。しかし症状が解釈を求めるようになるためには転移が必要です。症状とはさし当って、<他者>への呼びかけ、救いを求めてはいないのです。症状は本性上、包み隠された享楽jouissance fourrée(untergebliebene Befriedung未遂の満足、解放)なのです。症状はそれ自体として自足しているものです。それは欲望ではなく享楽で、「それは、『ものla Chose』に向かいます。善le bienの防御壁を通り越したところにあります。『精神分析の倫理』を読んでください。快感原則の向こう側にあるのです。だから、この享楽は不快と感じられるのです」(V. A. p.96)。 actiing-outに戻ります。症状とはことなりacting-outは転移を招きます。しかしながらこの転移は乱暴な転移です。分析を必要としない転移です。これをどのように飼い馴らしてゆくかです。Phyllis GreenacreのProblèmes g6eacute;néraux de l'acting out (Psychoanalytic Qaurterly,vol XiX, 1950, P.445-467)は問題外として、ラカンは再度フロイトに戻ります。フロイトはSidonie Csillag語った夢に嘘があることを指摘し、このケースに転移の可能性がないと言いきります。奇妙なのは、フロイトが落ちるままにしたlaisser tomberことであり、それは歯車の焼き付きを前にしてのことだったのだが、焼き付きを起させたものがなにか関心を示さず、それが廃棄物déchet,小さな残りかすresteであり、すべてを停止させた当のものなのであり、問題となっていたのです。フロイトは、無意識(も嘘をつくのであろうかと疑心暗鬼となります)に対する忠誠が失われることに危機感を抱き、embarrass6eacute;、6eacute;muといった状態になります。そしてかれ自身が行為化へと向かいます。かれは、真理のなかに根源的にフィクションの構造をみることを拒否したのでした。 D'un discours qui ne serait pas du semblantでは、acting-outをÇa consiste à faire passer le semblant sur la scène à la hauteur de la scène, à en faire exemple見せしめにする ・・・ On appelle encore ça la passionといっています(1971年1月20日)。ここではdiscours、はartefact、signifiantはsemblantと規定されるのですから。 フロイトに欠けていたのは「女性はなにを欲しているのか」という問いに答えを出そうとしなかったことです。『フロイトのもの』la
Chose freudinneの最後の部分が出てきます。このフロイトのものをフロイト自身は落ちるまま放置したのですが、かれの死後も、われわれの狩りへと誘います。(2008/01/11) |