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(8) 1963 1 16 水曜日
前回のセッションで不安は対象なくしては存在しないとラカンは言いました。この対象が対象aで今年度のメイン・テーマとなるものです。不安とは対象aを語るに際してその迂回路に存在し、対象aの唯一の主観的翻訳なのです。既に、対象aは幻想の式
S barré poinçon petit a でお馴染みのものです。これは [S
barré] désir de (a) と読むことができます。幻想は欲望の支えとなるものです。このことに関しては、『無意識の形成物』の1958年3月26日のセッションを参照してください。
ここで、欲望と対象との関係について陥りやすい迷妄として、ラカンは、フッサールのいう志向性に準じてこの関係性を捉えることだとしています。欲望の対象objet
du désirといった表現を、実際ラカンはこれまで用いてきました。この志向性の教えるところでは、なにかしらのものに向けて、ノエマ(ラカンはこれをpenséeとも言い換えています)が必ず存在するとなります。欲望についても同じなのでしょうか。
欲望の対象とは先にあるen avantものなのでしょうか。そうではありません。そのように捉えてきた対象関係論において不毛な方向性を歩んでしまってきたのです、とラカンは言います。
J.= A. ミレールはこの不安のセミネールにおいて、ラカンは欲望についてのクラシックな教義を刷新していると述べています。そもそも欲望は、分析的に解釈されたものとして、パロールないしシニフィアンの連鎖の底流にあり、抑圧された欲望として、メトニミークな欲望であるが、それとは別の面もあり、これは、ミレールに従えば、現象学的欲望、対象に魅せられたものとしての欲望だとされます。ところが本セミネールで現象学でいう志向性の構造を退ける欲望が登場します。対象への志向性の構造に換わって対象の因果性(原因性)causalitéの構造というものが本セミネールのライトモチーフとなっているとしているのです。
小生は「先にあるもの」という表現を、コンテキストからして(この年度のテーマのひとつとして、因果律causalitéというものが俎上に載せられていると思えるからです)、アリストテレスさらにカントとの関連で捉えるべきと思い、やや回りくどい話にもって行きたいと思います。
高峯一愚氏の著作を読むと、カントにおいて、アリストテレス(『自然学』等参照してください。しかし、アリストテレスはあまりに多くのことを列挙するので、そこにどのように原理を立てていってよいのか、後世の哲学者の悩みの種となっており、カントもその例外ではなかったのでしょう。例えば、オルガノンのなかの『カテゴリー論』の第12章では「より先」というものについて、時間的なものと論理的なものだけに限定できない言語使用が存在する事実が述べられており、読んでいて混乱してきます)からとった「われわれにとって先なるもの」プロテロン・プロス・ヘイマスと「本性上先なるもの」プロテロン・ティ・ピュセィの両極がつねに循環的に働いている様を窺うことができます。前者は特殊的、質料的であり、後者は普遍的、形相的で、transzendentalの定義として、「超越的なtranszendentalなもの、つまり超感性的理念つまりは仮像を内在的に、しかもア・プリオリに規定される様態」だとすると(トランスツェンデンタールとア・プリオリを混同してはなりません)、いわゆる強弁的な弁証的推理によってもたらされる仮像、理性の思弁的使用によって悟性を空転させて、「構成」によって辿り着いた超越論的理念である、自己原因としての自由、最実在的存在体としての神、思惟する不治の魂に辿り着くことが出来るのだが、今度はこれらを「統制的」に、例えば「自由」に関していえば「実践的自由」は「本性上先なるもの」によって規定されているのだから「われわれにとって先なるもの」である「超越論的自由」も確立される、とするのは凡そ循環論法の誹りをまぬかれることはできないと小生は思うのです。ここら辺のところは高峯氏もちゃんと意識しているふしは臭わせています。ですから小生はカントの解説書としてかれの三批判解説『カント
純粋理性批判入門』、『カント 実践理性批判解説』、『カント 判断力批判注釈』(すべて論創社)は貴重な書物として拝読している次第です。
ところでラカンは次のように続けます。
みなさんは、エピステモロジーにおける展開において原因causeの概念だけが立ち行かなくなってきていることに十分通じてられるでしょう。この概念は内容がどんどんと希薄になり…
une succession de réduction、貧弱で曖昧な機能の極みとなってしまってしか生き続けることができなくなったのも、広義に解しての話ですが、現代物理学と呼ばれる領域の進歩がそうさせているのです。
一方で明らかのことは、この原因という概念のいわば心的な機能とでもいえるものになんらかの還元réductionを施すとしても、そこにはどうしても、一種の形而上学的亡霊が居座り続けることになります。そこにはなにかがあるように感じられますが、これを直観によって生きなが長らえさすことはできそうもありません。この原因の機能のまわりにとりついているものを、分析の経験を端緒として再査定することにより、純粋理性の批判を、このわれわれの科学である精神分析の陽のもとで、原因というものの正しいステータスを再建することが許されるとわたしは思うのですが(V.
A. pp.79-80)。
光を量子と看做した際、E=hν(E=光のエネルギー, h=プランク定数,ν=振動数=光速度/波長で示される。顕微鏡で電子を覗いたとき、その位置の不確定の大きさをΔx=λ/AB/AE(Δx=顕微鏡で電子を覗いたとき、その位置の不確定の大きさ,
AB=レンズの直径, AE=物体とレンズの縁までの距離)となる。一方、h/λの運動量をもつ光子で物体をはじいたとき、物体はどちらにはね飛ばされてしまったのかよくわからない。特にレンズが大きく、EとAとのこりが近いほど、電子を横に強く蹴った光がレンズに飛び込んでくる可能性がある。このため、観測された電子の運動量の不確定の度合いΔpは、用いる光の運動量h/λにABとAEとの比を書けたもの、Δp=λ/h
x AB/AEになる。ここでΔxとΔpとをかけあわせてみる。そうすると、レンズの直径とか、レンズと物体との距離などという、使用する顕微鏡独特の数値は消え去り、しかもλも消去されて簡単に、Δx・Δp=hとなる。この関係式が、ハイゼンベルクの不確定性原理である(以上、ほぼ都筑卓司著『不確定性原理』BLUE
BACKS 講談社からの引用です)。
この後すぐに、ラカンは「対象aは、ノエシス的契機における志向性l'intentionnalit éd'une
noèse 1)といった類いのもののなかで位置づけられるべきものではないし、この志向性は欲望の志向性ではないです。この対象は、われわれからすれば、欲望の原因として捉えられます。先ほどの譬えでいえば、対象は欲望の後にあるのです(太字=筆者)。さらにラカンは続けます。
1) Claude conté, Jean Ouryの版ではl'intentionnalité
d'une noèmeとなっています。
この対象aからひとつの次元が現れてきます。この次元を主体の理論から除外しているところに、主体/客体の相関の問題に欠陥が生じてきているのです。この相関の中心部分が知connaissanceの理論として大手を振っているのですから。この対象の機能は、そのトポロジー的構造について新機軸を打ち出すことが要請されているのですが、このことについては既に、フロイトははっきりと述べていますし、特に欲動についての記述を読めば一目瞭然でしょう(V.
A. p.80)。
曲面のトポロジーにおいて、クロス・キャップの構造はラカンが相互貫通線ligne
d'interpénétrationという言葉で言い表している部分は、はめ込みimmersionと看做すことができるでしょう。前述した不確定性原理との関連から、トンネル効果によって説明されるリーク電流は三次元ユークリッド幾何学では捉えにくい、曲面のトポロジーによって理解しやすい現象ではないでしょうか。
フロイトの欲動についてのラカンのコメントに戻りましょう。欲動には目標Zielと対象Objektが区別されています。『続精神分析入門』Neue
Folge der Vorlesungen zur Einfürung in die Psychoanalyse,
GW XV, p.102- (邦訳 : フロイト著作集、第一巻、464頁-)で、フロイトは「目標は自己の身体にもとめられることもありますが、通例はある外的対象が挿入されており、この外的対象において欲動はその外的目標に到達します」と言っていますが、この「挿入される」eingeschobenという語をラカンはVerschiebung(置き換え)déplacementと同義の動詞の分詞形と解釈します2)。また同箇所で内と外inner,
außerを巡って、対象は外に、傾向的満足は「手袋の」内側のなにかにおいて認められるとしています。手袋gantをラカンはしばしばトポロジー的構造を説明する際用いていますが、retourner
qqn comme un gant 「誰々の意見をまったく別のものにしてしまう」といった意味の成句があり、図25において、このようなフロイトの言葉の撞着はトポロジー的に解決されます。外部(a)は、主体が、<他者>の位置において自分自身の鏡像を捉えるより前に(太字=小生)内在化され、自我と非-自我との分化が起こるのはこの鏡像が映されてからのことだとします。
2) 欲望が対象を追究するmetonimiqueな運動をラカンはdeplacementとしていることは周知のことです
対象aについて、フェティシストのフェティッシュを例にとると、フェティッシュは端的にまずフェティシストの欲望の原因なのであり、ヒール靴がフェティッシュだとすると、「かの女」がそのヒール靴を履いている必要などないのです。これはちょうど、女性の胸に夢中ならば、それが「かの女」の胸でなくてもよい、といった論理なのです。
さて主体と対象との関係について、話が及びます。
aをちょうど天文学でいる歳差運動として捉えるように位置づけるとしましよう。(…)人間の心的習性は、人間の主体というものがどこにあるのか探ろうとしますが、残念ながら、それはフロイトが傾向の源泉として示した場所にその横顔を認めるぐらいなものです
…(sic) そして言葉のなかにおいてはdans le discours、あなたたちが自分だと、あなたたちが「わたしなんだ」と言うその瞬間に、正確に言えば、その瞬間、無意識の次元において、aが身を据えることになるのです。無意識ではあなたたちは、その瞬間、a、つまり対象なのです。誰だって、そんなのは耐えられないことですが、それどころか話discoursのなかだけではすみません。ディスクールは結局、対象を裏切るのですから(V.
A. p.81)
そしてサド的、マゾシスト的主体と対象です。
図31において、右側はA、<他者>の側で、上にS、下にS barréが位置し、左側はS、未だ成りそこないのわたしje
encore inconstitué、問題視されるべき主体、精神分析におけるわれわれの経験においては再検討されて然るべき主体です。この主体は伝統的な主体/主観、つまり対象/客体との独占的な関係をもちうる主体/主観の定式とはまったく相容れない主体です。
図32に移ります。\\はサド的欲望[d]と呼ばれるもので、そこには謎があり、分裂schize、分離dissociationとしてしか説明や定式化ができないものが含まれています。この欲望は、ひたすら、これらを他者に持ち込むことを企て、ある限界まで堪え難いものを課すのです。限界とは、主体が生きていることによって蒙る、身体に痛みを与える分割division、裂け目béanceが他者において体現する地点です。ところが、サドの目論みは、他者に苦痛を与えるというよりは他者に不安を与えることであることとラカンは言います(ここでの他者とは?他者?ではありません)。
今度は図33が描かれます。ここでS barré φのφは、今年度の2回目のセッションで示したものと同様、アルファベットのオーではなくゼロです。他者の不安、つまりこの不安の主として味あわなくてはならない生の苦しみ、サド的欲望が扇情に長けているのはこの点においてです。ラカンが過去のセミネール(L'téique
de la psychanalyse, 23 MARS 1960, 30 MARS 1960)で、サドをカントがかれの純粋実践理性批判の課題との可能性として述べている箇所との関連で取りあげるのに吝かでなかったのはこうした理由からです。より正確にいうと、道徳意志の可能性の問題です。端的に言ってしまえば、道徳的純粋善との関連で明らかにされる一点をそこに持ち込んだらどうなのか、ということです。
余談ですが、ラカンは『エクリ』所収の『カントとサド』をÉdition du Cercle du
livre présieux版のサド全集の第15巻、『閨房の哲学』の序文として執筆に勤しんでいたのですが、結局、ラカンのテキストは不採用になり、1963年のクリティック誌(1963年4月号、No
191)に発表されることとなりました。どうして不採用になったのかについては、Jean Allouchの "ça
de Kant, cas de Sade" (Cahiers de l'Unebévue)
に詳しい。
サド的欲望について、一番需要なことは、この欲望が、その欲望に準じた行為について、そしてこれは儀式でもあるのですが、完遂するにあたって、気づかない点にあります。なにに気づかないかというと、この欲望がなにを求めているかです。なにを求めているかという問いに、ラカンは、それは、それ自身で顕現してくるものですが、誰(なに)に対してか、とさらに自問です。答えは、それ自身に対してとなりますが、この顕現ははっきりしないものであり、それ自身を純粋な対象として、ノワールなフェティッシュとして提示するのだとなります。サド的欲望の発露とは、結局、その欲望の作用者agentとしてある実行réalisationへと向かうものとされます。サドの顔を思い起こしいてみましょう。年月を経て、聖変化transsustantiationにより浮き出てくる、あるいは残骸として形をとどめるものがあるのも偶然ではないでしょう。石化したフォルム、L'éthique
de la psychanalyse の表紙でお馴染みのマン・レイのサド像です3)。
3) V. A. では、… c'est une forme précisément
- Man Ray n'a pas trouvé mieux, le jour où
il s'est agi de faire son portrait imaginaire -, une forme
pétrifiée. V. M. では …c'est précisément
la forme que Man Ray n'a pas trouvé mieux que de
lui donner le jour où il s'est agi de faire son portrait
imaginaire, à savoir une forme pétrifiée.
マゾシストの位置はまったく違います。マゾシストにとって、自分自身の対象としての受肉化は宣言された目標なのであり、テーブルの下の犬4)、取引される商品objetsのなかのたったひとつのアイテム、端的に言うと、対象一般、交換される商品である他の(太字=筆者)対象への同一化を強要されるのです。このような「どうにもならない」impossible道をマゾシストは求めているのです。どうにもならないとは、自分に対して自分を捉える。皆がそう捉えるように、自分がaであるものとして捉えるのですC'est
la route, la voie qu'il recherche justement, cet impossible
qui de se saisir pour ce qui est, en tant que, comme tous,
il est un (a). 現象学の立場からでしたら、… de saisir l'(en-soi) comme
le (pour-soi) … とでも言えそうですが、後になって、ラカンがサルトルを批判している箇所に触れますので、そのときにまとめてお話しいたしましょう。
4) マタイ伝、15, 21-28. 異邦人の女はイエスにとっても犬でしかなく、「子どもたち(弟子たち)のパンを犬に与えてはならない」とまで言う。しかしこの異邦人の女は食い下がる。「犬だってテーブルから落ちてくるパン屑、つまり奇跡をじっと耐えて待ち望んでいるのです」と。イエスはこの異邦人の女の信心深さに心を打たれ、自らの狭い心を恥じる。
しかしラカンはこうも言います。ただ単に、マゾシストは対象への同一化に達するのではなく、サディストが現れるのと同様、あるシーンにおいてこの同一化が現れるのだと。但し、このシーンにおいてさえ、サディストには自分の姿を見ることができず、残骸le
resteしか目に入らないのです。(2007/12/06)
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