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ラカン勉強会

(7) 1963 1 9 水曜日

図23、24が描かれています。

 平面鏡の左では、花瓶の口のうえにaが鎮座しています。花瓶はi(a)、つまりリビドーの自己愛的容器contenantが、この平面鏡(<他者>を表すAで示されています)の効果により、このaと関係を結ぶことができるかのように映し出されます。フロイトが言っている自己の身体と対象とのあいだのリビドーの互換性とはこのことです。こういうことです。i(a)とi'(a)とのあいだに互換性があるとすること自体、そこになんらかのものが混乱した様態のもとで現れてくるのであり、これが対象aがやって来たときの信号であり、これが不安なのです。主体、S barréとしての主体は対象とのあいだでの関係において、動揺しているのですが、この動揺において、ある時点で不安は信号として現れるのです。対象aのaはたしかにシニフィアンとして示されているのですが、意味作用significationの埒外にあるシニフィアンです。メラニー・クラインのように「よい」対象、「悪い」対象と対象の属性を対象に割り当てることすら、その「よい」、「悪い」といったsignificationを想定しているわけで、主体の動揺は対象の「よい」属性が悪を生み出すこともあることをラカンは喚起しています。

 対象objetは、対象性あるいは客体性とも翻訳できるobjectivitéとはかけ離れたものであることで、ラカンはここでカントの純粋理性批判における超越論的感性論esthétique transcendantaleを糾弾することになります。

† transzendentalには「超越論的」と「先験的」のふたつの邦訳がありますが、ここでは「超越論的」に統一することにします
 
 カントの『純粋理性批判』の本文は超越論的原理論 Der tranzendentalen Elementarlehre、第一部、超越論的感性論 Die transzendentale Ästhetikというタイトルから始まります。Ästhetikは美学という意味ではありません。Baumgartenが1750年の自著の第一巻をÄstheticaと命名したことによりこの用語が普及します。古代ギリシャ語のaisthêtikos、つまり感覚aisthêsisによる知覚あるいは理解の能力を有するものといった意味をもつ語からこのドイツ語が生まれました。現実の対象すなわち物自体Ding an sichが心意識Gemütを触発affizierenすることにより感覚Emphindungが生まれます。感覚Enpfindungを介して現実の対象に関係するような直観を、経験的empirischと呼ばれる直観Anschauungとカントは書いています。この経験的直観による無規定な対象を現象Erscheinungと呼びます。ところで現象において感覚と対応するところのものをカントは現象の質量Materieと呼んでいます。一方で現象の多様な内容をある関係において整理するところのものは、現象の形式Formと名づけ、前者はa posterioriに与えられ、後者はa prioriに与えられているものだとします。つまりこの形式は、一切の感覚から分離して考察されるべきものとされます。「 … わたしがある物体の表象Vorstellungから、悟性Verstandの思惟するもの、例えば実体Substanz、力、可分性のようなものを分離し、また同様にして感性に属するもの、例えば不可入性Undurchdrinlichkeit、硬さ、色等を分離しても、かかる経験的直観のなかでまだわれわれに残されているものがある、それは延長Ansdehnungおよび形態Gestaltである、そうしてかかる空間的なものが純粋直観に属するのである。空間という純粋直観は、感官や感覚などの対象が実際に存在していなくても、われわれの心意識における単なる感性的形式として、ア・プリオリに成立するのである」(カント『純粋理性批判』、上、篠田訳、岩波文庫、87頁。そしてこのア・プリオリな感性の諸原理に関する学をカントは超越論的感性論transzendentale Ästetikと呼んでいるのです。

 ところで、続く第一節 空間について §3空間の先験的解明においてカントは、「空間は三次元をもつ」という命題は経験的な判断あるいは経験判断Erfahrungsverteilではあり得ない、ましてこの種の判断から推論せられ得るものではないとしています。ランベルトとの交流もあったカントは,非ユークリッド幾何学を無視していたわけではありません。しかしながら純粋直観としての空間は三次元空間に限定している向きがあり、非ユークリッド幾何学を悟性による思弁的空間、もしくは経験的すなわち物理的空間とみなしていたと思われる、と高峯一愚は『純粋理性批判入門』(論創社)、116頁で述べています。後に論理実証主義は、ア・プリオリなものはカントのいうように総合判断を生み出すことはあり得ないという批判を展開しますし、一方、一時期のフッサールはカントに好意的ながらも、幾何学を空間直観から完全に解放し、算術と同じ純粋な論理的学問にすることを望んで公理主義者ヒルベルトに極めて近い立場に向かったことからすれば、空間については、直観に基づけば錯誤に陥るということを言っているに等しいわけで、これでは逆にカント批判になってしまうことにかれは気づいていたのかどうか疑問を抱いてしまいます(http://www.hss.shizuoka.ac.jp/shakai/ningen/hamauzu/kukanron10.htm参照)。

 ラカンがここで強調しているのは、分析的経験というものから出発すれば、カントのいう曖昧な経験を再検討しなくてはならなくなり、分析的空間には、3次元空間では解決できない問題がもちあがり、つまりこの問題は専ら平面に立脚するユークリッド空間には還元できず、トポロジー(この頃のラカンにとっては専ら曲面のトポロジーです)を援用することが不可避となってきたのでしょう。1962年11月28日のセッションでの小生の解説をもう一度読み直してみてください。schéma optiqueを光学シェーマと訳してきましたが、視覚シェーマと訳し直してもよいかもしれません。鏡つまり平面鏡は、平面という面が曲面のなかでは特殊例であることから規定されます。他の曲面のうちには球面をふくめて閉じた面が存在しますが、平面は断裁しないかぎり無限大、あるいは際限のないものになってしまいます。人間の視覚器官、つまり眼球(ここには、水晶体という凸レンズがあり、網膜は凹面になっています)および視神経から外側膝状体、視放線、主に後頭葉に局在する視覚各領野、視覚野からなる視覚に関する神経系統は他のある種の動物とくらべても、現実le réelをかなり歪めて現象(カント的な意味の現象です)をア・プリオリにであれア・ポステリオリにであれを規定していることは事実です。もちろん人間には純粋に視覚に寄与するシステム以外のシステムの存在があり、例えば前頭葉の右側にある46野は視覚をなんらかの精神活動に結びつけるための重要な領野なのでしょうが、これとてあくまで人間的精神活動に寄与するものなのであり、言葉の本来的意味からして、適応という点からみると、人間の知覚と思考はできそこないであるとしかいえません。アメーバは分裂した直後に既に環境に適応していて、分裂したどちらかが親で扶養しなければ生きてゆけないということはありません。系統発生的にいわゆる進化した生物ほど出来損ない度はひどくなり、たとえば馬は自分の足で立ち上がることができるようになるのに1日かかりますが、人間は1年近くもかかります。自分でできないことは誰かに要求しなければなりません。ラカンではdemandeです。そのためには、その習得についての能力が生得的であれそうでないものであれ、人間にとっては文字通り<他者>である言語というものを必要とします。生物として単独ではもっともひ弱な人間が生きてゆくためには集団が必要で、これを秩序あるものとする人倫というものが必要となってきます。動物でも集団生活を営む類は存在しますが、人間の場合は家族、地域社会、職場、国家と人間の出来損ない度に応じた共同体とその掟が定められます。系統発生に関しても、人間は単純に生殖はできませんし、もしそうしたら人類は滅亡するでしょう(極端な少子化か多産により)。生殖のためには性愛が必要で、さらにいうならば恋愛が必要なのであり、この恋愛にもルールがあり、結婚という制度は恋愛を縛るひとつのルールなのです。結婚から家庭という人倫が必要となり(ですから人間の性愛とは子供のときにかぎらず、いわゆる成人となってからも多形倒錯的なのです。生殖イコール性愛でないのですから、性愛は必然的に多形倒錯的となるのです) … と幾重にもルールが規定されていてはじめて人間はその生存existenceが保証されるのです。

 だんだん話がラカン入門みたいになってしまいましたので、再び超越論的感性論に話を戻しましょう。ラカンはこう言っています。

わたしは科学の領域において対象性というものがどのように変遷をとげてきたかはお話しいたしません。わたしが科学一般についてお話しするのは、カント以来、ある種の不都合が … (sic)ある種の不都合がすべて勢いをとり戻し注1)、これはこの対象というもののうちにおいての不都合ですが。それもしかじかの明証性というものにことさらこの不都合を分有させるため、とくに超越論的感性の領域における明証性というものに分有させるために … (sic)このことは、空間と時間というものをそれぞれ独立した次元として捉えることが明証性のあることとみなすためになのです。結局 … 結局、科学における対象の研究の進化とともに、不適切な翻訳ではありますが科学的理性の危機crise de la raison scientifiqueというものにぶち当たります。ひと言でいえば、それは物理学のある領域でなされた苦心の成果なのですが、空間と時間というふたつの次元は独立した変数としては看做すことができなくなったのです。注目すべきは、何人かの学徒にとっては、解決不可能な問題が持ち上がってきたのでしょうが、われわれとしてはさして驚くべきことではありません。対象のステータスについて、この対象がどこに拠り所を求めているかということを看破すれば十分なのですから。経験の構成、導入を象徴界へと位置づけ、象徴界のなかに例外的に想像界を挿入することを許さないという態度をとればよいのです(V. A. p.70)

注1) 原文は … quelques malheurs qui relèvent tous, dans le sein de cet objet, d'avoir voulu faire trop de part à certaines évidences … となっています。ミレール版ではquelques malheurs, qui tiennent tous à la part trop grande que l'on a voulu faire à certaines évidences … と解りやすく書き換えられていますが、タイプ印刷版でもweb上で公開されている国際フロイト協会Association freudienne internationale版(VERSION AFI, l'Angoisseで検索すれば見ることができます。以後AFI版と略します)でも最新の匿名版と同様です。たしかにreleverという動詞を自動詞として読むのは無理があるのかもしれませんが、例えば、relever de maladieという表現(「健康を回復する」といった意味になる)があり、ラカンが絶対的用法でreleverをこの語義で用いたとする方が自然なような気がします。不都合なことmalheursが回復する、とは奇妙な表現でしょうが、反語的でラカン的でさえあります。

 ラカンがここで言っているcrise de la raison scientifiqueとは具体的にはなにを指しているのでしょうか。たとえばKuhnのいうように、相対性理論や量子力学等、 revolutionary scienceがパラダイムの変換と深くかかわっている、といったことを言いたかったのでしょうか。カントのア・プリオリについての批判は論理実証主義を標榜するひとたちからのそれ、なかでもカルナップが有名ですが … 1971年のセミネール(6月16日のセッション)でかれをフレーゲのいうSinnとBedeutungとの違いを曲解していると批判的で、ここでラカンが言っていることとは重ならないでしょう。いずれにせよ、ラカンがカントを批判しているのは、かれの先験的(超越論的)感性論であって、超越論的論理Die transzendentale Logikの批判であり悟性Verstandの批判ではないということです注2)。つまりここでのラカンのカント批判は、カントの先験的(超越論的)感性論は批判すべき感性論が批判となっていないという批判なのです。


注2) 高峯一愚氏がいっているように、カントには理性には、純粋理性、実践理性と別々の理性があるとするのは間違いであり、三部作のうち最初のものは純粋理論理性についての批判であり、「批判」の対象とされなければならなかったのが受容性を含む「感性」と自発性を主としてその本質とする「悟性」とに分けられねばならなかったのだが、「(純粋)実践理性批判」については、それは専ら唯一の自発的能動的機能でなければならないから「批判」の対象とすることはできず、「批判」されなければならないのは、むしろ受容性を含む感性の影響かにおかれている「実践理性一般」でなければならないことにある時点でカントは気づいたとしています(『カント実践理性批判解説』、高峯一愚、論創社)。

一方時間に関しては別様に批判がなされます。

時間についても、それを4つ目の次元として非現実的なものにしてしまうような問題の立て方からすれば、直観においては、現実のdu réel壁として立てられた時間、われわれ皆に現れる時間とは相容れないものとなります。そしてその明証性のしるし、象徴界のなかで独立変数として表されるしるしとされることは、そもそもカテゴリー上の誤謬です(V. A. p.70)注3)

注3) ここでも匿名版では不完全構文的です。原文は … que sa tenue pour une évidence, pour quelque chose qui, dans le symbolique, pourrait se traduire par une variable indépendante est simplement une erreur catégorielle au départ(タイプ印刷版、AFI版も同様). ミレール版ではS'inquiéter du fait que ce qui du temps bous apparaît à tous, et qui est tenu pour une évidence, ne puisse se traduire dans le symbolique par une variable indépendante, est simplement commettre une erreur au départ.とまったく異なる文になっています。

次回のセッションで問題とされる欲望と対象との関係からも、現実の対象は欲望の原因である対象であり、この対象は、本セッションで後述することとなりますが、人間の視覚によって限定される3次元ユークリッド空間によって規定される鏡像には現れず、曲面のトポロジーを操作することにより捉えることができるものです。カントは幾何学にで取扱われる表象に言及し、「超越論的と呼ばれ得るものは、かかる表象が経験的起源をまったくもっていない認識と、それにもかかわらずこれらの表象が経験の対象にア・プリオリに関係することの可能性の適用が感官の対象だけに限定されるならば、かかる使用は経験的であると言われる」(ibid. p.99, 同掲、129頁)としていますが、たしかにこうなると、パラダイム・チェンジにより、ユークリッド幾何学を支える超越論的論理といったものも破綻していることになります。

 シニフィアンによって規定される主体は、当然ながら、自己に対して透明な主観ではなく、第一に無意識の主体です(フロイトにこの術語は見出すことはできません。ラカンの発見あるいは発明です)。このシニフィアンがなにかとして具現することがあるのでしょうか。シニフィアン相互の関係によってわたしたちの身体において示されるのです。ただし、繰り返して言いますが、身体像を超越論的感性形式で捉えるべきではないのです。デカルト的コギタチオによって規定される「わたし」の延長としての身体、わたしたちの鏡(つまり平面鏡)に映ったものとは違う身体です。ただし、鏡に映る身体像は、この鏡に現れたまなざしがわたしたち自身をもはや見つめなくなったとき、変化が始まります。不安へと通ずる違和感sentiment d'étrangetéの曙光です。

 鏡像はある時点で分身へと変容をとげます。対象は、ある位置を占める対象、狙い定めることができる対象、交換可能な対象から私的な、譲渡不能の、しかしながら幻想におけるわれわれの相関者である支配力のある対象へと変容を遂げます。図に示された射影平面の異なったレヴェルでの切断面は、カント的概念が透明なdurchsichtigものに到達するために、いかに直観に、さらには経験に、朧げな像に頼っているのか、言い換えればいかにいわゆる超越論的感性というものに頼っているのかを物語っています。

 対象についてのフロイトの言説の一部、「不安は対象なしにはありえない」はかってのラカンの定式に相応します。曰く「主体はファロスをもたないではいられない」です。このnon pas sansラテン語のnon haud sineは条件つきの命題で、il n'est pas là sans l'avoirは一方ではlà oùil est, ça ne se voit pas「主体があるところにそれは見えない」でもあるのです。

 レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』において示されている婚姻の法がまさにこのことを示しています。そこでは主体は、大文字のファロス、Φのもとに、交換において疎外されているのです。女性の交換のもとに隠されているのは、この女性たちを満たすファロスなのですから。だが、このファロスこそが重要なのだと見てはならないものです。見てしまうと不安が現れます。

 ここからラカンは去勢コンプレックスの問題へとはなしを展開させます。複合の去勢(実際ラカンはla castration, du complexeと言っています)は去勢ではありません。自慰にふける男児に対し「そんなことをしているとそいつを切ってしまうぞ」といった文言の威嚇は幻想的威嚇menaces fantasmatiquesです。去勢はファロスへの自己愛的同一化を禁止するたものものだからです。

 割礼における切断に話が及びます。Nunbergやその先代にあたる分析家は、割礼は、男性性を独立のものとして強化すると同時に、少なくともその不安を伴う出来事のもとで、去勢コンプレックスの効果を引き起こすとしています。ラカンは、ハンス少年の幻想(ラカンは夢と言っています)を例証として(GW. VII, p.300, 333 ; 邦訳 : 著作集, 216頁、242頁)、まさにこの去勢威嚇とされている親によるファロスの切断の言説を契機として、当のファロスは共有の対象objet commun、交換可能な対象objet échangeableとして現れてくるとしています。「錠前屋がやって来て浴槽のねじをはずす」、「錐でハンス少年の腹部に穴をあけこのねじを対象として取り付ける」といったテーマです。
 
 ハイデッガー(最初のセッションの解説で、この日のセッション以降話題に上ることはありません,と書いてしまいましたが、読み落しです、すいません)の『存在と時間』、第一部(ご存知のように『存在と時間』の第二部は結局書かれないままでした)、第一編、第三章「世界の世界性」A ?環境性と世界性一般の分析?において、対象は「用具性」Zuhandenheitにおいて捉えられています。道具は世界を世界として開示はしません。その道具が使用不可能であることがわかったとき、あるいはなくしてしまったり、壊してしまったり、つまり手許にない状態Unzuhandenheitにおいて、その対象は道具としてのものを強く主張します。このZuhandenheitからVorhandenheitへの変容こそ道具連関が閃き現れるaufleichtenのであり、世界の閃き現れAufleuchten der Weltの契機となるものです。

 精神分析の対象を論じるとき、やむなく発生論的になってしまいますが、ラカンに即して述べてゆくと、鏡像段階として、まず最初に一次的同一化が来ます。主体の、鏡像に対する、その全体像への最初の誤認が生じます。ついで想像的他者、かれのsemblableとのあいだに起きてくる移行的な段階がやって来ます。小文字の他者への同一化という解決の糸口が見つからない状態です。そこにみんなが欲しがる対象un commun objet、競合的な対象といった媒体が入ってきます。この対象のステータスは帰属といった概念から生まれます。… は君のものか僕のものかです。この次元においても、二種の対象が存在します。分有できるものとそうでないものです。分有できないものも分有の方向に向かいます。他の対象が選ばれるわけで、そのステータスは依然として競合に基づいています。この競合は曖昧なものであり、ライヴァル的でもあり和解でもあります。ここでの対象は相場に出すことが可能な対象、つまり交換可能な対象です。

 ファロスという対象をラカンはまず挙げましたが、これは去勢とかかわるからです。しかし他の対象もあります。ご存知のように、ファロスと等価の、ファロスに先立つ対象、糞便、乳首があります。これら対象が自由に出回りもっぱら交換という領域で現れるとき、不安は対象のそのステータスの特異性を信号として知らせるのです。

 フロイトが『性欲論三篇』で述べている、前駆快感とオルガスムスとの関係(ラカンは後者が<他者>の機能の介入によってのみもたらされる、としていますが、このような読解は『草稿』における<他者>に担われる役割についての読解となんら変わりありません)について、さらに『愛情生活の心理学』Beiträge zur Psychologie des Liebeslebensでの娼婦をと関係する男性のかれの母親との関係、ファロスの等価物が支えとなっている他の愛情関係について一寸触れた後、再びラカンは図23の説明に戻ります。

 あるいは、愛の対象の選択における選ばれるエレメントとして機能するものはここ[A](つまり平面鏡の位置)、フロイトがいう自我のメカニズムに基づくEinschränkung制限によって画定される枠組みの次元において現れてきます。この視野champの制限はその都合に基づいて、あるタイプの対象を除外します。それはちょうど、母親との関係が影響している対象です。(自我の)ふたつのメカニズムは、お解りでしょうが、最初のセッションでお見せした図の斜めの線の端に当たる制止と不安です。このふたつのメカニズムを区別するのは性的事象においてこのふたつが上から下へと介入してくるのを掴んでいただきたいからです。

 ここでラカンはこの「上から下へ」との表現について、転移と呼ばれている精神分析上の経験もそこに含ませます、と付言していますが、これはなんのことでしょう。転移については、1951年11月、パリで開催された14回フランス語精神分析学術会議で、ダニエル・ラガーシュの発表に対する質疑(そこではラカンは、相互主観的な転移の解釈をするラガーシュに対して、転移における、死の欲動がもたらす反復強迫を軽視していると批判を加えています)、1960-61年のセミネールとどこかで繋がっているのでしょうか。ドラ、シドニー・シラク(女性同性愛者の症例)についてはアクティング・アウト、行為化passage à l'acteとの関連で後日述べることとなりますが、Maurice Bouvetの同性愛的転移の夢については『無意識の形成物』(前掲)下、第XXIVおよび第XXV回目のセッションを参照してください。

 図24の説明には、クロス・キャップを切断するプロセスを明らかにしておかねばなりません。前年度のセミネール『同一化』の第XXIII回目のセッションで射影平面を切断するに際して、まず曲面上に線を描いてゆくと前面の外面、前面の内面、後面の内面、後面の外面と4つの面にまたがることが確認されます(図25)。貫通線を一度横切ると、再度貫通線を横切ってゆかねばこの線自身によって輪を閉じることはできません。よれゆえこの線の軌跡は必然的に内部の8になりますが、軌跡は図26の(1),(2),(3),(4)に分類できます。前面の外面をα、後面の内面をβ、後面の内面をγ、後面の外面をδとするとαγ, αδ, βγ, βδおよびその逆行の軌跡だけが可能であり、たとえばαからβに行くにはγかδを経由しなければなりません。経由網は図27に示されます。左右どちらからの経由も可能です(non orienté)が、順序を踏まないとなりません(ordonné)。貫通線を挟んでαγとβδのカップルができます。こうして(1)はαγ、(2)はαδαγ、(3), (4)はαδβγといった軌跡を辿ることになります。

 この日のセッションに話を戻します。図24の1は花瓶の首と口(穴)が描かれていますが、重要なのはこの穴の縁です。2は首と縁が変形されています。

ここから、昨年来わたしが言い続けてきた、同一化の機能に関するトポロジー的な考察について出番が回ってきました。昨年はこう説明しました、それは欲望の次元における同一化であり、同一化に関するフロイトの記述(邦訳 : 『集団心理学と自我の分析』VII 著作集6)では3番目のタイプ、ヒステリーに多く見られるタイプの同一化です。これらのトポロジー的考察の及ぶ影響と射程をお話しいたしましょう。長いことお待たせしてきましたが、対象にはふたつのものが区別されることは、クロス・キャップをみて直観的にお解りいただいているでしょうが、ひとつはaであり、もうひとつは鏡の関係から造り出される対象、対象一般、まさしく鏡像です。… 鏡像がそれがとって代わるものと区別されるのでしょうか。右の像が左の像になり、その逆になる所以がそこにあるのですが。視点を変えて言いましょう。フロイトが定式として述べていることを文字通りに解釈することが報われるとするならば、自我は曲面であるが、かれはこう言っています、曲面の投射である、と。純粋に曲面の術語で、トポロジー的にですが、問題を規定すべきです。鏡像はそれと重なり合う像との関係において、ちょうど右手の手袋が左手のそれに移行することですが、これはひとつの曲面上では、手袋を裏返しにすれば得られるものです(V. A. p.77)。

花瓶の上に載せられた対象である射影平面に記された切断に先立つ線の軌跡も(identificationでの分類では(1)に当たります)内部の8であり、これはメビウスの輪の縁と同一のものです(図28)。この線に沿って面を切断すると図29のように切痕を残した射影平面と円盤状のものが切り取られます。この切片をラカンはセッション中、聴講者のあいだに回して(それはどのような形をしたものだったのでしょう。少なくとも直観的には捉えることのできない対象なのですから)、これはaでありホスティアとしてあなたたちに捧げます、と言います。また

これはこのような切断によってもたらされるものです。切断が帯になされたものだとされようと、割礼の結果切り取られた包皮であるとされようと、その他どのような名を与えようとも。切断の結果、その切断がどのようなものであれ、メビウスの輪と比肩され得るなにかであり、鏡像をもたないものです(V. A. p.78)。

図23において、i(a)に対してi'(a)は鏡像で、理想自我にあたり、対象一般を成り立たせているものです。図28はこのi'(a)にXの位置にクロス・キャップのかたちを描き、その一部を切り取り取り、「それがあなたたち(聴講者)が手にしているものです」とラカンは言います。後に残された花瓶はその口がメビウスの輪となります(図24が示しています)。鏡像は奇妙な、分身が侵入してくる像となります。モーパッサンの『オルラ』に出てくる分身のようにです。分身に遮られて主人公は自分の姿を鏡に映し出すことができません。分身は背を向けているのでかれには見ることができません。分身が振り向くと、それは主人公の姿なのです。(2007/10/29)