ジャック・ラカン
|
(5) 1962 12 12 水曜日 黒板に図20が描かれています。 つねに忘れないでいていただきたいことは、われわれがこのシェーマ上に描いた場所、不安の場所は、ここでは- φが占めていますが、この場所がある種の空虚videを形成しているということです。ここに現れてくるものすべてがわれわれを当惑させるのです。この空虚がもたらす機能とでも言っておきましょう、その機能についてわれわれは当惑するのです(V. M. p.70, V. A. p.50)。 空虚videは欠如manqueと,あるいは後になって出てくる穴trouとはどうゆう関係にあるのでしょうか。然るべきときに明らかにしましょう。 不安については異なったアプローチがなされているが、どんなものでも目を通すようにとラカンは言います。ただし、ラカン流に読むことが必要なのです。客観的、実験的なアプローチに対してもです。ラカンは前回のセッションのかなりの部分を要求の問題に費やしていました。要求および質問あるいは疑問interrogationには回答というものが組合せになっていますが、例えばパブロフの実験では、回答はすでに実験を行なう側(ラカンにしたがえば<他者>になります)の手にあるわけです。実験動物もフランス語ではsujet1)です。実験神経症は神経症自体が回答となっているとしてもよいでしょうし、不安も回答の一部ということになります。 1) フランス語はわれわれにとってはじつに奇妙な言語です。われわれの感覚でいえば、実験動物はどちらかというと対象ではないでしょうか。フランス語sujetには日本語では実に多くの語があてはまり。さすがに実験動物の場合はそう訳しますが、例えばdivision du sujetでしばしば引き合いにだされるsujet de l'énonciationとsujet de l'énoncéは「言表行為の主体」と「言表の主語」と訳し分けした方がよいのではないでしょうか。また単に主体と訳した方がよいのか患者と訳した方がよいのか迷うことはしばしばあります。人間の主体性にもいろいろレヴェルがあるでしょうし、西洋史のそれぞれの局面で、例えば主権というものがだれに属していたかによっても違ってくるでしょうが(sujetは臣下でもある)、古代ギリシャ語のhypokéiménonから派生してきたsujetにどうしてこれほど多くの語義が結びついているのかは大問題で、また問題が大きすぎてだれも取りかかることができないのかもしれませんが、次の件でラカンはsujet supposé savoirについて触れていますので、このsujetという語の困難さを含んでおいてください。 奇妙なことではありますが、実験動物が犬ですと、その犬は<他者>であるパブロフをあるいはこの<他者>の要求を知っているのかどうか曖昧ですが、バッタや蛭に実験を施す場合、これらsujetは「知らずにいる」はずです。精神分析において乗り超えなければならない主体「知を想定された主体」も自己意識Selbstbewußteinの迷妄によって成り立っているのです。この迷妄は透明な意識をもった主体という誤謬にもとづきます、この主体が鏡像を描き、これを対象だと思い込み、その対象も自分と同類で、同様の知が想定されていて、翻って主体の意識の透明性を保証する、といった相互主観性の罠にはまってしまうのです。しかし精神分析というものは本来的に、対象というものが切り取られ、異質のものとして現れるのを経験すること、これは既に説明されていることです。 前回のセッションで<他者>の要求について、このセッションで話をすると予告しましたが、意外なことにK ゴールドシュタインの『生体の構造』Der Aufbau des Organismusに言及する過程でこの予告が果たされます。ゴールドシュタインによると、局所的な病変でも生体は全体としてそれに反応する。例えば不安というものは生体全体がとるカタストロフィー的反応として解釈されます。ラカンはこの書を聴講者たちにぜひ読むよう勧めますが、ラカン的読解が必要であると釘を刺します。例えば器質的欠陥にもとづく障害から発来する反応も、欠陥がない主体がよるべない状況Hilflosigkeitを前にしての反応と変わりはないと。例えば、器質的欠陥が限定的limitéで、患者がこれを試練épreuveとして受け入れ、この限局limiteという事実から、穴、空隙が対象の領域に現れ、欠如がポジティヴなかたちをとればそれが不安の源泉となるが、研究室内でゴールドシュタインかだれか別の研究員の立ち会いのもとで指定されたテストを受ける場合も、被験者は<他者>の要求である計画された試験épreuveを受けることになり、これも不安を引き起こすと。つまり欠如している領域とこの領域における質問、要求は密接な関係にあると言っています(V. A. p.53)。 今度は<他者>の享楽ですが、こちらはE. ジョーンズのOn the Nightmare (American journal of Insanity, vol.66, No.3, 1910)を紹介します。悪夢と夢魔とは相関関係にあります。インクブスは胸の上にのしかかってきてそれ自身の享楽でひとを押し潰そうとするからです。ついで、今度は現実の悪夢です。質問攻めにし享楽を味わう存在がいます。質問とは謎解きのそれです。スフィンクスが仕掛ける勝負はオイディプスのドラマの前哨戦です。ラカンはこの質問を要求の次元の原初的かたちを与えるものとし、いわゆる本能的要求と呼ばれているものはその単純化されたものにすぎないとしています(V. A. p.54)。 "Les formations de l'inconscient"の1958年4月23日のセッション(邦訳 : 『無意志域の形成物』下巻、140頁)、さらには"Identification"の1961年12月6日(V. A. p.39)、同1962年1月24日のセッション(V. A. p.97)(向井雅明氏の注釈参照のこと)で、主体の消失による主体自身への移行について、とシニフィアン、痕跡について話は展開されてきました。ロビンソン・クルーソーがが漂着した島で足跡を発見しますが、これはそれ自体としてはシニフィアンではなく、ロビンソンがこの足跡を消したとき、そこにはじめてシニフィアンの次元が入り込んでくるとしたラカンは、fading du sujetにおいて出現と消失は3段階で示されるとしています。まずあるシニフィアンそれはひとつのしるしmarque、痕跡trace、エクリチュールですが、それ自体だけでは読むこともできない。ふたつのシニフィアン、これは脈絡のないものである。三つのシニフィアン、これは3番目のものの1番目のものへの回帰である。ここで、trace de pas「足跡」はpas de trace「痕跡がない」に変わってしまうのです。記号signeはだれかになにかを示すものですが、シニフィアンについては、「あるシニフィアンは別のシニフィアンに対して主体を代表する」というラカンの有名な定式が再確認されます。さて失われた対象に対する不安の関係が問題になります。失われた対象はもちろん再発見できるものではありません。それでも再発見しようとすると、それは痕跡の主体へと回帰するしかないのです。 大ヒステリーにみられる知覚脱失、麻痺、暗点、視野狭窄において、ヒステリー者は不安を覚えることはありません。かの女たち(かれら)にとって、これら欠如は気づかれないままにあるからです。因にbelle indifférenceというヒステリー者を形容する術語があります。だれかが「美しき無関心」と訳してしまいましたが、belleはここでは美しいという意味はまったくありません。「単に無関心」です。つまり「まったくの無関心」という意味になります。ジャン・コクトーの戯曲にLe bel indifférentという一幕ものの戯曲があります。女性がああだこうだといろいろ訴えます。が男性はずっと新聞を読んでいてひとことも言葉を発しないで、最後に新聞を折り畳んでやはり無言のまま立ち去ります。この男は無関心を装っているだけかもしれませんが、なぜかラカン自身も多くのラカニアンも自分はヒステリー的だと吹聴するところがあります。ヒステリー者に負けず劣らずという構えなのかどうか … またまた脱線すいません。 一方で、これもたびたびラカンは引き合いに出しますが、マクベス夫人は、前王ダンカンをマクベスが殺害しながらその処置を怠ったため、死体を始末する羽目になり、そのとき手についた血痕trace de sangを何度も洗い流そうとするいわゆる強迫洗浄を夢遊状態で演ずるのですが、同様に、強迫神経症者はシニフィアンにsigneを再発見しようとします。遡及的取り消Ungeschehenmachenは「もう済んだことなのだが確信がもてないのです。確信がもてないのはそれがシニフィアンだからです。つまり歴史とはトリックなのだからです。この点で強迫神経症者は正しいのです。かれはあることをきちんと把握しています。かれは起源に向かおうとします。前の段階へ、signeの段階へとです。わたしはこの方向と逆の方向へあなたたちを一巡させようとしているのです」(V. A. P.55)とラカンは言い、動物の痕跡とのかかわり合いについて述べます。 動物もかれらの痕跡を消します。猫は自分の糞便を土のなかに隠します。縄張りを確保するためです。では動物もシニフィアンとかかわり合っているのでしょうか。動物はかれらの痕跡を消しますが、かれらにできないことは、本当の痕跡をわれわれに偽のもののように思わせるように作り替えることです。偽の人為的な痕跡こそ本質的にシニフィアンである所以です。 主体というものが原因だとするにせよ、根源的原因は空虚として示される痕跡です。そしてこの痕跡は偽の痕跡と受けとられることを主張します。主体は、かれが生まれたとき、だれに語りかけるか。<他者>の理性の純粋な形相とでも呼べるものにです。この語りかけにおいて、<他者>の場所で、シニフィアンの連鎖において列次を決めるしかないからです。そして、諸シニフィアンはその準拠としてシニフィアン化された痕跡を求めるしかないのです。 だから、起源において、シニフィアンが現れることを可能にするとしても、(痕跡であり、空虚であるゆえ)<他者>は知らないというのが眼目なのです。 図21が描かれます。狩りの獲物objetであるaと<他者>とのあいだに主体は現れます。同時にシニフィアンも生まれますが、主体は消された痕跡であるシニフィアンであるがゆえS barréとして,知られぬまま現れるのです。それから後の主体の目標はこの根源的な非-知の克服という宿命を背負わされているのです。哲学が意識と絶対知とを混同してきたことにより、この非-知としての主体を無意識として措定せざるをえないのですが、意識の系には、鏡像段階では哲学的伝統側からの反駁に対抗できないことをも踏まえて、現実の起源に現実の対象というものがどこに見出されるのか、一歩先に踏み出そうというのが今年の目標だとラカンは言います。 神経症者の要求についての話に戻ります。分析のディアレクティークが嵌りやすい罠は次のような類いのものです。すなわち、神経症者の要求において根っこにある偽の部分が気づかれていないということです。不安と要求とがどのように結びついているかというと、要求がどれほど蒼古的なものであれ原始的なものであれ、欲望のために用意された場所に対して騙すなにかが存在し、このことが、偽の要求にそれを埋めるような答えに対して不安が位置しているということになります。ラカン自身が幼少だった頃、かれの両親のどちらかが、つねにかれのそばに居ることを約束するような口約束するのを聞いた記憶があるが、これがラカンの要求であったとしても、要求において、シニフィアンは文字通り受けとられてはならないものと親を批判しています。要求しながら子供に運命づけられているのは、Fort-Daの遊びが構造化する現前-不在の関係であり、この関係を最初に訓練して制御しなければならないのです。いくらかの予備の空虚が完全に塞がれてしまうと、内容がポジティヴなものでもネガティヴなものでも、混乱が生じ、そこに不安が顕現してきます。図22が描かれます。分母に幻想の式、分子に欲動の式です。通常poinçonと呼ばれる記号を、ラカンはここではcoupureとしています。神経症者においては、幻想が特権的なかたちで、つまり欲動の式として示されるのです。この式をめぐっての話はあまり展開せず、欲動について、ドイツ語Triebの英訳instinct は不適切なものであることの論拠が示されます。例えば、口唇欲動、性愛化された部分としての口唇は口でないのは、パブロフの実験で問題になる消化液でないのと同様なのであり、口唇は次いで上下歯垣のあいだの空隙‐ここでラカンはホメロス『イリアス』(下)松平千秋訳,岩波文庫、54頁、「アトレウスの子よ、なんと怪しからぬ言葉が、あなたの歯垣から洩れたことか。… 」という件を引用します‐へと移行すること、つまり欲動が関係するのは、身体そのものではなくその裂け目cassureであることを強調します。裂け目は内と外との交流を可能にします。『精神現象学』においても身体、器官といったものが可能にする「労働や言語とは、外化であり、この言語、労働により個人はそれ自身としては保存されず、自己自身のうちには所有できないものとなる。こうして個人は内を自己の外に開け放ち、これを放棄し、<他者>の思うままに身を捧げる」‐以上、Hyppoliteの仏訳からの拙訳、つまり重訳です。ヘーゲル全集4『精神の現象学』上巻、金子武蔵訳、岩波書店、(C)理性、A. 観察する理性、c. 自己意識が自分の直接的な現実に対してもつ関係の観察、人相学と頭蓋論〔1〕(a. 器官の冒頭の部分(311頁)を参照してください‐と書かれていますが 2)、喪失perteというのは、これは内と外の逆転には影響されないものとして持ち込まれます。つまり内と外との入れ替わりのどの段階においても、残余は残るのです。このものは逆転もされず、シニフィアンによって可能な分節化をもまぬかれるのです。対象はこうして、部分的なもので、切開されたかたちをとります。母親の乳首に変わって人工の乳首を赤ん坊はしゃぶります。切り取られた胸は後出のZurbaranの聖アガタ像についての考察に受け継がれます。対象を切断するといことが欲動の構造に目指されます。肛門括約筋は糞便という対象を切り離すことに貢献しているのです。 2) 主体の内と外の裏返しをラカンはしばしば、手袋の裏返しといった隠喩で表現します。トーラスに切り目を入れて裏返すと、円筒形になりますがトポロジー的にはこれもトーラスです。面白いのは、ふたつの輪、つまりふたつのトーラスの絡み目-これをラカンは主体の<他者>に対する神経症的なディアレクティークとして援用しています‐"La
topologie ardinaire de Jacques Lacan", Jeanne Granon-Lafont,
Poin Hors Ligne, p.56参照してください。邦訳が出ていますがいま手許にありません -のうち、一方を切開し、裏返しにすると思いもよらぬ構造ができあがります。 再び欠如についての話に戻ります。パスカルはトリチェッリに触発され、Puy de Dômeの山で実験を行ない、アリストテレス以来定説となっていた「自然が真空を嫌うことhorreur du vide」に敢然と挑みます。しかしわれわれも、空虚への恐れにつねに屈するわけではない、とラカンはこのセッションを締めくくります。 (2007/09/27) ※緑色の部分は、訳を改定した箇所です。 |