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ジャック・ラカンについて

『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74

さて、ボロメオの結び目の平面化のもうひとつの図です44)

(図7)

症状は、異形の噴出ですが、ファロスの享楽はこの異形でできています。わたしが性的無関係と称した根源的欠如がそこで展示され開花するかぎりにおいてそうなのです。解釈において、分析的介入がもっぱらシニフィアンに向けられることから、なにかが症状の領野から撤退するのです。ここ、象徴界において、言語、ララングに支えられるものとしての象徴界において、狭義の意味における無意識を構成するララングによって記載された知は編み出され、症状に打ち勝つことができるのです。だからといって、Sによって記された輪がなにものかに通ずる道が途絶えることはないのです。このものとは、知によって目減りすることのないもの、つまりフロイトが言う原抑圧されたものUrverdrängt、無意識においてけっして解釈されないものです。

どうしてわたしは現実界の輪に「生」という語を書き入れたと思います。その訳は、これは異論の余地なしでしょうが、生を満喫するjouir de la vieという曖昧な表現からも、この生について45)知る方法としては、われわれは科学に通ずるしかないということです。例えば、出発点として化学的構造についての成果を考えてみれば、そこにはこれ以上現実的réelなものはないし、言い換えれば、これ以上不可能なものはない訳です。化学的構造と言いましたが、生の諸要素をどのように分類しようが、どのように科学の法則を適用さて説明しようが、DNAの分子構造の構成に直結することとなるでしょう。DNAといえば、大変興味深いことですが、そこに既に結び目の基本的イメージがあった訳でして、つまり現実界のなかのなにか、それは他ならぬ生そのものなのですが、これが結び目の構造をもっているということですが、これに気がつくのになんと時間を費やしたかと呆れます。このことを踏まえて、さらに驚きを禁じ得ないのは、どこを見ても、解剖学上の知見においても、蔦のつるのような植物の発育過程をみても、特に後者の場合みかけ上はそれを目指しているように見えますが、自然界における結び目は皆無であるということです。みなさんには、ちょっと提案があります。いま申し上げたことについてですが、いま申し上げたことは、異なったタイプの抑圧、原抑圧されたものの兆しではないのでしょうか。でも、ともかくも、夢を膨らませるのもいい加減にしましょう。今までのわれわれの足跡を踏まえれば、やらなければならないことが山積していますから。

表象は、フロイトの前意識を含んでですが、最後に示したボロメオの結び目における占める位置からも、<他者>の享楽Jouissance de l'Autreとはまったく異なるものです。<他者>の享楽は、性不交的parasexuéなものです。男性にとって、女性と想定されるものの享楽であり、また反対に女性la femmeにとっては、いや、われわれはla femmeというものを想定できません、なにせla femmeは存在しないのですから、ですからひとりの女性une femmeにとっては、ということになりますが、男性にとってと逆で、ひとりの女性にとっての男性の享楽です。ところが、この男性は、まったく、ああ、ファロスの享楽そのものなのです。この性不交的<他者>の享楽は、存在しませんし、存在することが許され、あるいは可能になるのは、唯一ことばparoleを介して、愛のことばを介してのことです。この愛のことばは優れてパラドキシカルなもの、驚くべきものでして、はっきりと感じ取られ理解できる点は、神が人間どもに、汝の隣人のみを愛するようにと導いたということです。ここでいう隣人を愛するということは、男が女を愛することに限られるわけではありません。というのも、男が隣の女に手を出してもまずうまく行く試しがありません(これは先ほどわたしがキリスト教的大失敗archiratéと呼んだという原則に基づいたものです)。この<他者>の享楽からファロスの享楽が身体外にあるだけ、当の<他者>の享楽はその分、言語外、象徴界の外にあることになります。といのも、この外にあるという事実から、すなわち、なんと言いましょうか、言語のなかでもっとも生きているものあるいはもっとも死んでいるもの、つまり文字のことを言っているのですが、文字を捉えた瞬間からです、唯一、外で文字を捉えることによってしか、われわれは現実界に入ることができません。

この<他者>の享楽について、だれもがどれほど不可能なものか知っています。そして、フロイトが提起した神話、つまりエロスのことですが、これはひとつになるという神話でしょうが、このことでだれもがへとへとになっています。なぜならば、どうあっても、二つの身体がひとつになりっこないでしょう。どんなにお互いの身体を絡ませてもです。このことについては書こうとしたことはないのですが、身体を密着することでせいぜいできることといえば、「わたしをぎゅっと抱き締めて」と言うことぐらいでしょうか。しかしあまり強く抱き締めると、相手は最後にはへとへとになるでしょう。ですから、ひとつになる方法なんてまったく存在しません。まったく傑作中の傑作である冗談ですね、これは。ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素、つまり死に属するものの意味に繋がるときだけでしょう。

これからお話しするのは、皆、おそらく混同していることが多々あるからです。わたしのスピーチがある種のオーラを発していて、そのことで皆、言語について、混同している点が多々見受けられます。わたしは言語が万能薬だなどとは寸毫たりとも思っていません。無意識が言語のように構造化されているからではありません。正確を期して言いますと、無意識は、一方的にララングのみに頼ってはいないからなのです。言語はすべて、ララングはすべて、現用のものではあれ、死んだ言語なのですが、無意識はこのララングの死んでいるという性質のみに依拠してはいないからです。旧来の同一率の原則から解放されてこそ、眼から鱗が落ちるのです。このモメントが働くのは、<他者>のレヴェルにおいてではなく、論理のレヴェルにおいてです。つまり、あらゆる意味と名がつく類を根絶やしにすることのよって、x=xという純粋数学の定式のひとつである同一率に到達できるのです。

<他者>の享楽について言えば、これを満たすただひとつの方法があります。この領野はちょうど、科学が生まれる土壌と一致しています。科学は、周知のように、ガリレオが文字と文字とのあいだに線を引き、両文字に関係性を与えたとき、かれが速度というものを空間と時間との比率として定義したとき、まさにその瞬間に生まれたのです。娘がわたしに見せてくれた子供向けの本にもそのことは書かれていました。この瞬間こそ、直観の努力の積み重ねだけでできあがった概念から脱出できた瞬間です。もっとも、この努力が第一歩としては結実するのですが。つまり重力のことです。この重力の初歩的な概念からさらに先に進むスタート・ラインが引かれたのです。人類はそこから僅かばかしの進歩を遂げました。しかしながら科学とはいったいなにをもたらすのでしょうか。科学は関係性、知の関係性の欠如している場所にうまく嵌り込むことのできるものです。繰り返し申し上げますが、科学は、この場所に、大多数の人にとって、みなさん方は特にそうでしょうが、新商品を生むものをもち込むものです。例えばテレヴィジョンとか月世界旅行とかです。月世界旅行に行ける人は限られているでしょうし、みなさんには回ってこないでしょう。でもみなさんは月世界旅行の実況中継をテレヴィジョンで見ることができるのですよ。このことが言いたいのです。科学はそういうところから出発するのです。このような次第で、わたしは一縷の望みを抱いています。表象から下り、生活上sur la vie、もっと満足を与えるものを享有することができるのではと。

さて、締めのはなしに移ります。既に述べましたが、精神分析の未来は現実界がどう変貌するかに懸かっています。つまり、もし新商品の類が生活の隅から隅まで行き渡り、われわれが新商品に愛されるようなことになったらどうなるか。その可能性は少ないとは思いますがね。一方で、新商品が将来、症状になるようなことにはならないでしょう。じっさい、今のところ、症状ばかり生み出していますが。そうでしょう、自動車を持っていても運転は大変ですし、ダッチ・ワイフ46)を持っているのと同じです。男はダッチ・ワイフがファロスであるかのように、ご執心なのです。でもそいつがファロスと関係をもつのは、ファロスがセクシャル・パートナーであるこのものとの関係をもつことを邪魔するという現実以外にはありません。性的パートナーとはそうしたものです。ご存知のように、「パラ」は隣にいるそいつの脇に寝そべるだけのことですから。そいつとは他のものautreなのですから。

ここら辺までとしておきましょう。まとめとして、うっちゃっておいたものを使いましょう。66頁のなかからです。はじめから読めばよかったのでしょうかね。書いていたときはしっかりと考えていたのですがね。結局、わたしだけで一方的にテキストを読むのでは、みなさんの理解する労を取りあげることになりますし、多分、みなさんがなにかを読む、そのようにわたしは望んでいるのですが、ということになってしまったでしょう。もし、みなさんがボロメオの結び目の平面化になにかを読むことができたのなら、思うに、みなさんがそれを自家薬籠中として、現実界、象徴界、想像界もうまく区別して、好きなように使っていただけるかもしれません。

ご清聴有り難うございました。

1) 実際は、Gérard de Nervalの詩集LES CHIMERESのArtémisは、La Treizième revient...で始まる。ラカンがla Troisiémeという語にどのような意味を込めていたかであるが、まずそれは現実界le réelである。このことは、「つねに同じ場所に戻ってくる」Ce qui revient toujours à la même placeとか「騙さないもの」Ce qui ne trompe pasといった現実界についてのラカンの定式に通ずる。またローマでの講演はこれで三回目であることも踏まえている。因に、第一回目はエクリ所収の有名な『精神分析におけるパロールと言語の機能と領域』であり、第二回目はLa psychanalyse, Raison d'un échec (Autres écrits所収)である。
2) çaは言うまでもなく、フロイトのEs、ラテン語のidでもあるが、ラカンはこの講演では、ことさらçaを連発する。たいていの場合は、この精神分析用語のçaとまったく関係がない。
3)古いヴァージョンではこのla langueがlalanqueと表記されていたが、最新ヴァージョンのとおり、la langueとしなければ意味が通じない。因みにlalangueについては、本講演のほぼ7ヶ月前に1974年3月30日Scuala Freudiana(Centre culturel françaisとも記されている) で行なわれた講演 v. http://www.effet-freudien.com/download/lacan1974.doc.で、平易な説明がなされている。 lalangueとはまず、喃語lalationと関連づけられ、当然、乳幼児に認められるものだが、母親がこれに加わる。母親も自分の赤ん坊には、「大人のことば」以外にも、赤ん坊が喋る喃語を真似てやはり喃語を喋る。母親は赤ん坊の欲望(ここでは、まずは、敢えて、要求とか欲求ということばを用いないで説明したい)を叶えようとする一方で、その母国語を教える。lalationからla langueへ入ってゆく、そこにlalangueができあがるとしてもよいであろう。ところで、精神分析においては、分析主体は誰かに対して、要求を、語るという営為をとおして、分析家にこの要求をゆだねる。ラカンの先生(トマス・アクイナスを教えていたのか、ラテン語を一寸教えていたのかよくわかりません)とされるÉtienne Gilsonは、ラカンによれば、アンチ・フロイディアンであったと。かれが言うには、フロイトは夢を語らせ、それを書き、解釈を施しているが、そもそも、夢は体験ではないか、と。Gilsonは、当時若かったラカンよりも20歳も年長で、ラカンはかれに抗弁できなかった。ラカンはGilson先生に対する複雑な思いから、また、Gilsonのことばをひっくり返してこう言うのです、夢が語られるとき、既に、そこには語られている夢の体験では言い尽くせないなにかが秘蔵されている。秘蔵されているもの、それはひとつの知であり、これをフロイトは無意識と呼んだのだと。失策行為、機知についてもおなじである。端的に言って、夢は lalangueに翻訳されて語られると。ラカンは断じて、言語langueは無意識からのみの形成物ではないと強調する。現実界は天から舞い降りてきたものであり、この現実界には知、現実界の知というものがあることになり、この知はひとが天から授かったものでつくりあげたものとされる。ラカンは言います、     

「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります
と。
4) Encore, p.34-35では、discours courant(われわれが日頃話している言葉で、お互い理解しあっていると、意識的レヴェルで捉えているとされるおしゃべり。Heideggerの「おしゃべり」Geredeにも通じているであろう)が、語呂合わせで、disque-ourcourantへと変化する。ourdromeはcynodromeがドッグ・レース場なので、熊のレース場oursdromeといった連想も働く(しかしラカンはsを発音していないが)。ドッグ・レースにおいてグレート・ハウンドlévriersはかれらの対象であるウサギliévreをわれさきにと追いかけ飛びかかろうとする。comme un ours dans le cageという表現もある。「檻のなかの熊のように同じところを、目的もなくぐるぐる回る」といったイメージが込められているのではないであろうか。
5) la régle du jeuとあるが、ジャン・ルノワールの映画のタイトルでもある。まさにこのタイトルは、la régle du jeu du signifantと書き換えてもいいような映画であると訳者は思っている。
6)原文は"Je pense donc se jouit". ça rejette le "donc" usité, celui qui dit "je souis"とアナグラムでできている。
7)「象徴界に記入されなかったものは現実界に現れてくる」といったクラシカルなラカンの定式がここでも当てはまる。
8)「無意識の主体」という言い方はラカンがはじめて導入した。
9) ラカンはしばしば、フロイトの『精神現象の二現象に関する定式』(G. W. VII, pp.229-238)で、かれの分析主体が見た夢のなかで、死んだかれの父親が、「自分自身が死んでいることを知らない」という訴えについて言及している。il ne savait pasという半過去が悔恨の念を表していることに留意すべきである。
10) symptômeも一種の享楽である。症状はそれ自体で自足しているからであり、これを切り崩すには転移が必要となってくる。
11)このような境遇を悟ったデカルトが、「仮面を被って進みゆく」 lavaus prodeoと告白するに至ったことについては、ラカンは随所で述べている。
12)この箇所の原文は、L'opacité de la conjonction du noein et de l'einai,となっているが、知の問題をめぐることが語られていることは確かで、パルメニデスとプラトンとの関係で考えると、プラトンの『テアイテトス』の183 C(邦訳 : プラトン全集2、岩波書店、p.307- 特に、ソクラテスがパルメニデスに拝眉の機会を与えられたときの様子をソクラテス自身が語っているが、この件が参考になるのではないかと思う。訳者は強引に知と言説と訳した。
13)例えば、ヒステリー者におけるbelle indifférenceを知に対するまったくの無関心とすれば符合するであろう。
14)funとsumはそれぞれesse(フランス語のêtre)の複合過去形と現在形であり、フランス語で、j'ai étéとje suisに相当する。

15)statはデンマーク語、スウェーデン語、パピアメント(オランダ領アンティール諸島のクレオール語)で「国家」、フランス語のétat、英語state、ドイツ語Staatであるが、ラテン語status「立つという行為」から派生したもので、これは動詞statuo(フランス語établir)と同根である。またstatはフランス語ではthermostat(サーモスタット), aérostat(軽飛行機)等、語尾に置かれ、静止、固定、平衡の意を与える。

16)linguistrieをこう訳した。

17)シャルル・モーラスをはじめとするアクション・フランセーズのことを言っているのであろう。ラカンは若い頃、モーラスに陶酔していた。

18)もちろんindoeuropéensとのあいだで洒落を言ったつもりであろうが、はっきりいって、親爺ギャグの域にも達していないと訳者は思う。

19)ペニスが勃起した状態においては、排尿は困難である。勃起したペニスとハリネズミが針を立てて威嚇するのは攻撃性を表す。つまりハリネズミみたいな抵抗を攻撃性で示すひとも、ラカンのもとでは、安心して、ペニスも萎え、放尿する、という意味であろうか。

20) ラカンは、イタリアにおけるラカニアンの教えを広めるてめの指導的者としてVerdiglione, Contri, Drazienの三人(ラカンはtripodeと呼んでいた)、に託していた。(v. 1974-04-00 lettre de Jacques Lacan à trois psychanalystes italiens : tripode. Spirales, 1981, n°9, p.60. tripodeは、鼎に例えてよかろう。この講演で、ラカンは3という数字にこだわっており、ここでも、三人の足並みが乱れることがあれば、それこそ、「鼎の軽重を問われる」といった事態を招きかねない、と考えていたのであろう。後出のボロメオの結び目においても、象徴界、想像界、現実界のまとまりconsistanceを与えているのは、環そのものではなく、結び目なのである。

21) v.Les non-dupes errent,13 novembre 1973

22) ライプニッツの「「モナド」は形而上学的単位である。それは、「それ自身による一なる有」(Unum per se Ens)とされる実存的存在であり、別の言葉では、「実在的点」(Grua.544)、生命と作用の第一原因である「エンテレケイア」、あるいは「実体的な一性」などと呼ばれる(G・304)。最近の素粒子論に置き換えると、いわゆる還元主義réductionismeの誤謬を補うかたちで現われてきたholismeや複雑系complextéに例えられる概念を含んでいる。注目すべきは、相対性原理と量子力学の理論的齟齬を克服しようとする超ひも理論の出現である。ライプニツとこの新理論との関係については、川井 光著、『はじめての"超ひも理論-宇宙・力・時間の謎を解く』(講談社現代新書)(新書)等参照のこと。

23) 5つのパンと2匹の魚 (マタイの福音書14章13~21節)参照のこと。

24) 両者とも、奴隷と自由人の恋愛をテーマにした戯曲を書いている。

25) Conférence de presse du Docteur Lacan - 29 octobre 1974 - au centre culturel français de Rome.
http://aejcpp.free.fr/lacan/1974-10-29.htm参照のこと。

26) séminaire sur "lettre volée"

27) 『エクリ』所収の『精神分析におけるパロールとランガージュの機能と領域』であり、最初のローマ講演である。

28) 旧来、instance de la lettreは、「文字の審級」というように訳されてきたが、ラカンは、たいていの場合、このinstanceをこの語の語源でもあるinsistanceの意味で用いている。

29) もちろん、デリダの『グラマトロジーについて』のことを言っている。

30) Séminaire XX、 特に第VII講および拙稿『性的(無)関係の(非)論理』を参照のこと。

31) ダンテ『神曲』地獄編、第三歌(寿岳文章訳、集英社文庫へリテージシリーズ、37頁)

32) Télévision, Lacan, J,. (藤田博史訳『テレヴィジョン』)

33) Maraboutというゲームの発案者。Maraboutは尻取りゲームで、最初にMaraboutという語が出され、例えば、Bout de ficelle, Selle de cheval, Cheval de courseなどと続くがCocktailgames社によって、これらのことばを連想させる動物の漫画が描かれたカードが発売されており、このカードを用いて卓上ゲームができるようになっている。

34) ready-madeそのものが既製品として大量生産されたものに芸術的意味合いを持たせようとしたマルセル・デュシャンの試みである。

35) 音からして、そして形からしてΦである。

36) どのテキストかは不詳。

37) ランボーの原文ではJe ne me sentis plus guidé par les haleursとなっている。

38) ラカンの晩年のセミネールの常連であった二人のトポロジーの専門家、ジャン=ミシェル・ヴァプロとアラン・コシェによれば、トポロジー的な捉え方をすると、次元とは以下のように定義される。

ヴァプロ:トポロジー的対象の次元は、何回かの切断によって、この対象に不連続性をしょうじさせる(この対象を複数部分に分割させる)ことによって定義される。これはポアンカレ※によって与えられた定義である…ユークリッド幾何学においては、点が次元を持たないことから次元というものが定義されてゆく。複数の点からなるものが線で、一次元となる。線を結合すると曲面ができ、二次元となる。曲面を積み重ねると立体ができ、三次元となる、等々。しかしこのような表現représentationは直感に頼ったものであり、ある次元が他の次元により規定されており、ある群essaimが他の複数の群によって作り上げられる仕組みになっているのだが、これらはそもそも別の次元のものである。よりスマートな定義の仕方として、逆の道から捉えるべきである。つまり、ある対象がn次元であるのは、この対象がn-1次元の切断によって二つの部分に切断されたときである。ゼロ次元に行くには、二次元が一次元によって切断され得るという事実から定義される。一次元は線であるが、線は、点の次元の切断により分断される。点をゼロ次元のものとするならばである。ついで、曲面は、線によって分断された対象である。曲面の構造は、一次元による切断によって定義されるのである。Étoffe - Les surfaces topologiques intrinsèques - Jean-Michel Vappereau, Topologie En Extension, 1988, pp.13-15

コシェ:一本の線を切断するのは点である。点はゼロ次元にあり、線はここから一次元であると定義される。線を切断するものは曲面であるから、曲面は二次元であることになる。また曲面を切断するものは空間であるので、空間は三次元となる。 Nodologie Lacaniennem L'Harmattan, 2002, p.21

※H,Poincaré, (a) La Science et l'Hypothèse, Flammarion, Paris, 1970. (b) la Valeur de da science, Flammarion, Paris, 1970.

39) 不詳

40) Das Unbehangen in der Kultur, G.W. pp.419-506

41) Séminaire Livre X, L'angoisse, Seuil, 2004

42) 図のJΦにあたる。

43) 原文にはdans ces différents champs du symptômeとあるが、Lacanのラプシュスか文字化する際の誤記であろう。

44) セミネール Les Non-Dupes Errent は1973年11月3日から1974年6月11日まで15回のセアンスが開かれた。このLa troisièmeはこのセミネールが終わり、セミネールR.S.I(1974年11月13日から1975年5月13日まで14回のセアンスが開かれた)に先駆け、後出のボロメオの輪のそれぞれの輪の外側に帯を設けた点(細部において、R.S.Iには,修正が施されてはいる)で、後者のセミネールを先取りもしている。

45) …, la vie nous ne savons rien d'autre et tout ce &agrave; quoi nous induit la science となっているが、la vieの前にdeが入っているはずである。

46) une fausse femmeをやや強引にこう訳した。因にダッチ・ワイフについて、wikipediaとwiktionnaryで検索したら、つぎのような結果でした。
この語が差別語とはなっていないことがこれによって確認できたといって宜しいのでしょうか。
Dutch wife
Dutch wife may refer to:
・a long body-length pillow
・a prostitute
・a sex doll
・a hot water bottle
・a wicker or bamboo pillow-shaped "cage" which is kept in the bed on hot nights to improve air circulation. See Chikufujin.

English
Etymology
The origin of the term is thought to be from the Dutch colony of Indonesia where Dutch traders would spend long periods away from their wives.
Noun
Dutch wife (plural Dutch wives)
1.A long body-length pillow that can be held or wrapped around one's body while sleeping.
2.In East Asia and Southeast Asia, a wicker or bamboo tube the size of a person for use in the bed. In the summer heat, the open bamboo structure is cooler than fabric pillows or sheets. The Dutch wife is embraced by the user- this position exposes the maximum amount of the body to cooling breezes.
3.A prostitute.
4.A sex doll.
(2008/09/19)

向後、訂正する場合は赤字で置き換えます。(荻本)

本日(9/19)、システムの不具合により、”『ラ・トゥルワジエーム』の試訳”へのアクセスが一時出来なくなりご迷惑をおかけいたしました。